「訓練でこそ」人は変わる。
この観点がなければ、コーチングを学んだとしても、人生を変えることが難しくなってしまうだろう。
訓練とは一体なんだろうか。
何かの技術を、ある一定時間以上の取り組みで、身体レベルにまで落とし込むことだ。
ここから、訓練には、時間をかけた地道な取り組みが必要であるということがわかる。
コーチングでは、マインド(mind)を扱う。
マインドとは、脳と心(の機能)のことであり、マインドを上手に運用でき、言語・非言語を通じて他者にそれを伝えることのできる人間をコーチ(coach)と呼ぶ。
通常その際には、他者には前提しているゴール(goal)が存在する。
ゴールとは、人生を変えたい方向性を示すものだ。
よって、コーチとは、他者がゴールに向けて効率よく進んでいけるようなマインドの使い方を伝えることのできる人間である、と考えることができる。
マインドの使い方が上手になれば、人生を変えることができるのは当然だろう。
なぜなら、私たちの人生のどのような局面においても、マインドが参加していないことはありえないからだ。
さて、ここで、マインドの「使い方」と言っていることに注意してほしい。
何かの使い方を習得する際には、どういう光景が思い描かれるだろうか。
バイオリンの使い方について考えてみよう。
バイオリンの本を買ってくるとする。
バイオリンは木材によって形成され、質量は300〜600グラム、全長は約60センチ、弦が4本あり、E音からG音(ちょうどベースの1オクターブ上だ)まで鳴らすことができると理解した。
この理解が、バイオリンの使い方を習得したと言われると、それはおかしいとすぐにわかるだろう。
なぜなら、実際にバイオリンを手に取り、上手に音楽を奏でることができるようになってはじめて、バイオリンの使い方を習得したと言えるからだ。
もちろん、その使い方の上達には終わりがないことも想像に難くないはずだ。
たった一曲弾けただけで、バイオリンを完全に習得したと言う人間がいたら、その人は世界中の音楽家から叱られるはずだ。
何が言いたいかというと、マインドの使い方もまったく同じであるということだ。
マインドについて理解することと、マインドを上手に使うことは、そもそも別の話だ。
だから、コーチングについていくら勉強しても人生が変わらないと言われても(別に言われたことはないが)、こちらとしては大変困る。
バイオリンの本をいくら読んでもバイオリンを弾けるようになりませんと言われているようなものだからだ。
こう書くと、ナンセンスであるとよくわかるだろう。
コーチングは使うことで習得ができるものだし、最終的なインパクトが生まれるものだ。
人生を変えるには、コーチングを生きるという段階に(それもできるだけ早く)入る必要がある。
そのためには、もちろん、コーチングの勉強をするにこしたことはない。
今回の記事のような主張を書くと、「ではコーチングの勉強は必要ないのだな」と解釈する人がいる。
残念ながらそれは、初歩的な論理の錯誤だ。
「コーチングは実践が大切だ」という主張は、「コーチングには勉強が必要ない」と言っているわけではないと早く気づくべきだ。
勉強は必要だとしても、じゃあコーチングを実践する段階に入るためにはどうすればいいのか、あるいは、マインドの使い方を習得するためにはどうすればいいのかと思うだろう。
それは、あなたがバイオリンを弾けるようになりたい時、どう振る舞うのが適切かと考えてみればいい。
バイオリンを手にとって毎日弾く、これは基本中の基本だろう。
年に一度しか弾かないのに、バイオリンを習得するのは難しい。
もっと聡い人であれば、ネットで検索して、自分にバイオリンの使い方を正しく教えてくれる人を探し、実際に習いに行くだろう。
質の高い先生と同じ場を共有し、バイオリンの使い方という情報を全身で吸収しようとするだろう。
もちろん家に帰り、そこで習ったことを再現しようと、毎日練習するだろう。
それこそがバイオリンの使い方を効率的に習得する、唯一にして絶対のアプローチのはずだ。
マインドの使い方についても同じだ。
コーチングを受けるということは、バイオリンを習うことに似ている。
もちろん両者の違いもたくさんあるが、そのように理解しておけば当面は問題ないだろう。
また、先生たるコーチと関わるかどうかは別としても、実際にマインドを手に取り、毎日弾いてみるということが重要である。
そこで、この記事で述べたような「訓練」という発想がマインドの使い方習得には欠かせないということは、よくわかると思う。
蛇足かもしれないが、コーチングについてよく言われる「変化は一瞬で起きる」、「内部表現の書き換えは一瞬で決まる」というテーゼと、今回の記事の主張はまったく矛盾しない。
なぜなら、それらは現象を別の階層から論じたものであり、それゆえ、それらを同じ階層にあるかのように並べると矛盾したように見える、というだけの話だ。
このあたりの話は、稿を改めて書いてみたい。