「事務所に堆積した音楽『場』」

とある事務所に来ている。

そこで音楽を聴いていて、気がついたことがある。

場所を変えて聴いた音楽は、違うものに聴こえるということだ。

それは、スピーカーが良いとか、アンプが上等だとかいった話をしているのではない。

もちろんそれもあるだろうが、もっと広い意味合いでの話だ。

その事務所である音楽が長い間聴かれていたという事実があるとする。

そして、その音楽は「その音楽を聴きたい」という能動的な形で聴かれていたとする。

これは当たり前だろう。

聴きたくないという形で音楽が聴かれることは少ないはずだ。

そうすると、そこには、その音楽が「聴かれる」ために最適な情報が積み上がっていく。

それは、オーディオのちょっとした設定や配置かもしれないし、その部屋にあるその他のもの、あるいは、もっと観念的な気配や気なども関わっているのかもしれない。

あまり広げすぎると話がオカルトめいてくるが、要するに、ありとあらゆる情報が、その音楽を聴きたいという欲求のもと最適化されているということだ。

もちろんそれは、その場にいる「聴く主体者にとって」の最適化ではある。

しかし、その音楽のひとつの「聴き方」のよい模範となることは確かだ。

だから、場に行き、自分の体をその場のあり方に預けてみると、それまでよさがわからなかった音楽の、新しい魅力が伝わってきたりする。

その場に情報として積み上がっている、その音楽に対する聴き方に触れることで、自分の感じ方が変わるのだ。

それは、自分だけではなかなか到達することのできない世界だ。

これを読んでいるみなさんも、自分の何かを変えようとするのなら、ぜひとも「場」に行ってみるということを押すすめする。

新しい感覚がつかめるはずだ。

ただし、本当に自分の中にその感覚を定着させようとするのなら、それなりのリソースがいるかもしれない。

一瞬で受け入れるだけの度量か、あるいは、じわじわと受け入れていくための時間といったところだろうか。

「仕事の最適化」

最近よく考えている、仕事の最適化についてだ。

ゲシュタルト(認識のまとまり)を意識して、最適な形に設計し、無意識化する。

簡単に言えば、仕事の最適化とはこれだけだ。

表現してしまえば一文で終わってしまうのだが、これが実に奥が深い。

ありとあらゆる大小のゲシュタルトが存在し、それらを最適な形にしていく必要があるからだ。

しかも、最適化した一瞬あとには、さらによりよい最適化の可能性が出てくる。

常に物事は流動的であり、一瞬一瞬に新しい状況が生まれてくるからだ。

状況が変われば、最適な形が変わるのも当然だろう。

そこで、「リミット」を考える必要が出てくる。

リミットとは、要するに締め切りのことだ。

締め切りがあるから、そこで最適化をやめるという判断が出てくる。

もし、締め切りがなければ、永遠に最適化をしなければならない。

 

リミットと最適化のせめぎ合いを、さらにひとつ上の抽象度から観察し、設計をしていく。

そんなことを考えながら、日々の仕事をこなしているが、まだまだ工夫の余地がありそうで楽しくなってくる。

「仕事の能率2」

昨日、寝る間際に思いついた説明の切り口で書いてみよう。

まず、タスク(やるべきこと)が一つあったとする。

たとえば、「セミナーの資料作成」としよう。

このタスクの「強さ」を測定してみる。

このときの基準はなんでもいい。

私は、「弱い」「やや弱い」「ふつう」「強い」「超強い」みたいに分けている。

セミナーの資料作成は、「強い」くらいだろうか。

このブログの記事は、私の中では強さ「やや弱い」だ。

だから、だいたい一呼吸で書ききって、すぐにアップしてしまう。

ツイッターのひとつのつぶやきは、「弱い」だ。

もう一方のブログの記事は、強さ「超強い」だ。

一記事あたり、このブログの20倍くらいのエネルギーを注いでいる気がする。

この把握によって、だいたいそのタスクにどのくらいのエネルギーを注ぐべきか掴む。

 

次に、そのタスクをバラバラにしてみる。

このブログはバラバラにする必要はない。

なぜなら、「やや弱い」だからだ。

しかしセミナーの資料作成だと、「強い」なので、5〜10くらいに分割する必要がある。

では、10としておこう。

具体的には、「プランを練る」「さらに練る」「書き出してみる」「整理する」「細かい部分を調整する」「調べ物をする」「スライドを作る」「予行演習をしてみる」「フィードバックをもらう」「紙資料にする」、、、などだ。

これらの最適な順番を前提として、一日にストレスなくできる量を見極め、期限から逆算して配置をする。

このときの、「ストレスなくできる量」というのが重要だ。

まず、人間はおそらく同じタスクを続けてやるのはけっこうすぐに限界がくる。

他のことに切り替えれば、平気になるのだが、同じことをやり続ければ疲労が極端に増すようだ。

なので、そういう状態にならない程度の量を調整する必要がある。

また、意識的活動でのみタスクを捉えるのではなく、無意識が最適化するのを待つという意図もあると理解すべきだ。

たとえば、先ほどの霊ならば、「プランを練る」から「さらに練る」までの間に、睡眠を含むある一定の時間が挟み込まれていないと進めない。

何かはわからないが、無意識の中での作業を経ないと、仕上がらないものがあるということだ。

このように、タスクを細切れにして、もっとも疲労が少なく、もっともスピーディーに終わるような設計をする。

そしてあとは、それに基づいて、毎日少しづつ進める。

調子が良いときにこそ、やりすぎないように注意する。

 

このようなタスクに対する設定をたくさん作っていく。

私は、いま数えてみたら、意識的に用意したそういったものが大小関わらず常時20〜30くらい(気がついていないものや、無意識のうちに出来上がったものを含めるともっとあると思う)動いている。

通常、意識の上ではひとつの作業をやっているわけだが、その裏側では、膨大な量の処理が無意識下で動いているということになる。

無意識はほとんど無限に近いほどの能力があるわけだから、この方向でいけば、もっともっと生産性をあげることができると思う。

 

基本的には、以前書いた「仕事の能率」と同じような内容だが、もう少し整理が進んだので、いまいちど書いてみた。

ちなみに、この記事の強さは「ふつう」くらいで、本来なら分けて書くべきだが、一呼吸で書いた。

なので、それに伴う疲労をリカバーするために、このあとの(予定外の)タスクが自動的に決定した。

コーヒーブレイクだ。

「仕事の能率」

最近、仕事の能率がすごく上がった。

そのコツをひとつ書いてみる。

ポイントは並列処理だ。

 

たとえば、あるタスクを分解してみて、「1、2、3、4、5」としてみる。

これらがすべて完了して、そのタスクが仕上がるというわけだ。

具体的に、ひとつの記事を書く場合を考えてみる。

1:構想を練る、2:下書きをする、3:部分ごとに詳細に書く、4:全体を見直して推敲する、4:webにアップする、などだ。

実は文字で書くと勘違いしがちなのだが、この五段階が均等に時間が進んでいくわけではない。

たとえば、2と3の間は、わりとすぐ進めても問題がないが、3と4、4と5の間には少し時間をはさまないと難しかったりする。

無意識に準備をさせるという段階をふまなければならないステップがあるということだ(私はこれは、脳の使い方が大きく異なるステップの際に生じるのではないかと考えている)。

また、もちろん、それぞれのタスクの中でかける時間もバラバラだ。

いずれにせよ、この記事を書くというタスクをひとつとっても、どのような環境で、どのくらい時間をとり、前後に何をしているか、などの諸条件の最適な形が、それぞれのステップごとに存在するということだ。

もっといえば、このステップを分解していけばもっと最適な形を追求することもできる。

とにかく、このようにそれぞれの最適な形を持ったステップを、他のタスクの同様のステップ(たとえばA、B、C、D、E)と組み合わせ、1日の中で最も良い進め方を作っていく。

1A、2、、、3、、、、、B、C、4、D5。。。E

みたいな感じだ。

「、、、」の間には休憩だったり、その他のタスクのステップが入ったりする。

また、次のステップをサッとこなすために、無意識に処理させたりしている。

また、1とAはひとつの作業で同時にやってしまうという意味だ。

 

このように、すべてのタスクを分解し、最適な順番を作り、並列的に処理できるような枠組みをどんどんと作る。

これが1日単位だけではなく、一週間、一ヶ月、四半期、半年、一年などで作っていくのが理想だ。

 

こういったことが以前よりもできるようになってきたので、能率が上がったと感じたのだ。

この記事は考えながら書いているので、ちょっと説明がおぼつかないが、いずれもう少しうまくできるようになると思う。

 

ちなみに、最も重要なのはこういうことをやるべき必要性だ。

必要性がなければ、そもそもできるようにならない。

そして、その必要性を、私たちはゴールと呼ぶ。

「睡眠時間3時間」

ここ一週間くらいは自宅にこもって仕事をしている。

仕事が楽しくて仕方がないので、ついつい長時間やってしまう。

夜も意識的にシャットしなければ、いつまでも仕事をしてしまう。

そのせいか、ここ数日だんだんと就寝時間が後ろにずれてしまっていた。

当然朝は遅くなる。

結果、いわゆる夜型生活になりつつあった。

昨日寝たのは深夜4時だった。

しかし、昨日の夜に是正すると「決めた」ので、朝は早くに目覚めた。

そして太陽の光を浴びるために、外を少し歩いた。

 

「決めた」と何気なく書いたが、このことはけっこう大切だ。

無意識に届くくらい深い確信とともに何かを「決める」と、実際に体がそのように反応する。

これは一例だが、人は思った以上に自分で「決める」ことができていない。

なんでも自分で「決める」という習慣を身につけていくべきだ。

「新企画」

「実際的に」どこへ行っても誰の前でも、自分はプロのコーチだと堂々と言える確信も備わってきた。

なので、そういったあり方を前提に、新しい企画の準備を進めている。

東京で春までに形にしてければいいと思っている。

自分にとって楽しみでためになるものであり、かつ、関わる人にとってもためになるものであると確信している。

「体調」

3週間ばかり濃密な予定が続き、今週の月曜日にそれが終わった。

その結果、ゲシュタルトが一時的に破壊され、それが落ち着くまで数日を必要とした。

具体的には、なんとも落ち着かない精神状態や、筋肉のこわばり、眠気、頭痛、集中力の欠損などが生じる。

そして、金曜日である今日、だいたいもとの状態に戻ったように感じる。

落ち着くまでの間に、何もやっていないわけではない。

基本的には仕事をしている。

ところが、よく自分を観察してみると、やはり高度に脳を使うようなタスクをこなすことは難しいようだ。

 

自分が成長するためには、すでに出来上がったゲシュタルトを壊し、ゴール側へと再統合することを繰り返す必要がある。

ところが、ゲシュタルトの破壊の規模が大きすぎると、リカバリーに少々時間がかかる。

リカバリーの数日を仕方のないものとして受け入れるか、あるいは、ゲシュタルトの破壊の規模をもう少し抑え、小刻みに変化をしていくのか。

どちらがいいのかは一概には判断がつきづらい。

しかし、最近では、数日にわたって影響が出るほどでもなく、それなりにゲシュタルトの破壊が生じる程度のスケジュールの組み方が望ましいのではないかと考えている。

言葉では説明しづらいのだが、成長のペース(ゲシュタルトの破壊の規模)と、リカバリーに必要な時間の関係には、ちょうど二次関数の最大値をとるようないいポイントがあるような気がする。

 

書いていて思いついたのだが、成長のペースと、リカバリーの時間とのさらに上の抽象度で何か考えることができれば、もっと成長が早く、リカバリーする時間も必要のないアプローチがあるかもしれない。

それが何かはまだわからないが、そのうち思い付くだろう。

「理由2」

なぜこのブログをはじめたのだろうか。

別の理由がまた見えてきた。

 

私が発信している情報は、メインブログ、フェイスブック、メルマガ、ツイッターがある。

それぞれ役割が違うが、共通しているのはコーチングの話題であるということだ。

 

まず最初に、「書きたい、表現したい」という欲求がある。

そもそものその対象は渾然としたものとして現れる。

その中から、コーチングの話題にうまく接続出来そうな対象を選びだし、コーチングの理論で切り出すことで、言語化をしていく。

必然的に、その条件に合わない対象は切り捨てられていくことになる。

しかし、これらは、依然として私の中に行き場を失った形で留まり続ける。

この状態が苦しいのだ。

どうしても言語にしていかなければ、頭がパンクしそうになる、そのことに気づいたのは最近だ。

 

コーチングの理論は非常に多くの現象を分析することができるし、多くの問題を解決するための指針を打ち出すことができる。

それゆえ、書く話題には事欠かないため、いつのまにかコーチングとは「関係させる必要のないと思える」対象が、私の中で積もり積もることとなった。

でも、そういった対象であっても私の中から出てきた、私の一部なのだ。

無視し続けることは困難なことだ。

 

そういったコーチングとは関係のない対象をどう切り出すかを経由することで、かえってコーチとしての私の姿を伝えることができるかもしれない、そうも思う。

「だから言ったじゃん」

私が最も嫌いな発言のひとつに「だから言ったじゃん」というものがある。

他人から言われるのも好きではないし、自分は絶対に言わないように気をつけている。

 

Aに対して「こうするべきだ」とBが言った。

そのときAは、うまくそれを受け入れることができなかった。

時間が経ち、Aはそのことが腑に落ち、受け入れたとする(あるいは、相変わらず受け入れられないままで、それが何かの失敗につながってしまうようなこともある)。

その場合には、かつてBに言われたことすら忘れているかもしれない。

そんなAを見て、Bは「だから言ったじゃん」「前から私はそう主張している」「ほら言った通りになったじゃないか」と言う。

こういうケースだ。

 

なぜ嫌いなのかを分析してみると、生産性がないからだ。

唯一あるとしたら、発言者の我が満たされるということだけだろう。

本来、言った通りのことを受け入れたとしたら、Aの成長でありそれは喜ぶべきことだ。

また、言った通りのことが受け入れられなくて失敗につながったとしても、それをきっかけによりよいAになるチャンスと捉えることもできる。

そのいずれの方向へも行かないのが、Bの「ほら言ったじゃん」なのだ。

示されるのは、Aに対するBの正当性、優位性のみであり、Aは洞察の鈍い自らを恥じ、自己評価を下げる方向へと進むしかない。

 

書いていて、この発言の気に入らなさは、本音と建前の乖離にあるのかもしれないと気が付いた。

Bが「こうすればいい」と言うのは、通常「相手のために」というスタンスを取る。

この時点では、「こんなことを理解している自分はすごいのだと示したいから言う」というスタンスはとらないだろう。

もし「相手のために」というスタンスが真ならば、時間がかかってもAが築いてくれれば喜ぶべきことだ。

しかし、実際には「ほら言ったじゃん」と言う。

これは「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだろう。

また、「相手のために」というスタンスが真ならば、Aがなかなか受け入れられず失敗をしたときこそ、上手に「こうすればいい」を伝えるチャンスなはずだ。

にもかかわらず、「ほらいう通りにしないからだ」と言う。

ということは、やはり「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだ。

このように、建前としては「相手のために」を取りながらも、局面が変化すれば「自分の正当性、優位性を主張する」本音が出るという構造がある。

このことに対して憤りを感じるのかもしれない。

 

自分がそのようにならないよう気をつけている。

そのためには、わざわざ人に自分の正当性、優位性を主張する必要がない状態になっていればよい。

すなわち、自分で自分の圧倒的価値を認められるようになっておけばよいということだ。

「概念 / concept」

概念の定義を理解すること自体は、さほど難しいことではない。

ところが、概念を自在に使いこなそうと思うと、これがなかなか難しく、時間がかかるものだ。

 

包丁があるとする。

包丁が何であるかを理解することは簡単だろう。

食材を切るためのものだ。

しかし、包丁を自由自在に使いこなせるようになるには、それなりの時間を要する。

数ある食材に対し、それぞれベストの力加減、角度、スピードなどを同時並列的に処理できるように長けていく必要がある。

それなりに時間がかかるだろう。

概念を自在に使いこなせるようになることは、このことに似ている。

 

先日、Cognitive Corporate Coaching Program(CCCP)を受講した。

私が主戦場としてきたパーソナル・コーチングは、一人に対して施すものだが、このプログラムでは人が集まった組織そのものにコーチングを施すものだ。

必然的に、新しい概念が登場する。

それらの定義を理解することは問題ないのだが、やはりその運用にぎこちなさを感じる。

慣れるための方法は単純で、失敗を恐れず積極的に使ってみることだ。

 

指を切ることを恐れて包丁を握らないようでは、いつまで経っても上達しない。