とある事務所に来ている。
そこで音楽を聴いていて、気がついたことがある。
場所を変えて聴いた音楽は、違うものに聴こえるということだ。
それは、スピーカーが良いとか、アンプが上等だとかいった話をしているのではない。
もちろんそれもあるだろうが、もっと広い意味合いでの話だ。
その事務所である音楽が長い間聴かれていたという事実があるとする。
そして、その音楽は「その音楽を聴きたい」という能動的な形で聴かれていたとする。
これは当たり前だろう。
聴きたくないという形で音楽が聴かれることは少ないはずだ。
そうすると、そこには、その音楽が「聴かれる」ために最適な情報が積み上がっていく。
それは、オーディオのちょっとした設定や配置かもしれないし、その部屋にあるその他のもの、あるいは、もっと観念的な気配や気なども関わっているのかもしれない。
あまり広げすぎると話がオカルトめいてくるが、要するに、ありとあらゆる情報が、その音楽を聴きたいという欲求のもと最適化されているということだ。
もちろんそれは、その場にいる「聴く主体者にとって」の最適化ではある。
しかし、その音楽のひとつの「聴き方」のよい模範となることは確かだ。
だから、場に行き、自分の体をその場のあり方に預けてみると、それまでよさがわからなかった音楽の、新しい魅力が伝わってきたりする。
その場に情報として積み上がっている、その音楽に対する聴き方に触れることで、自分の感じ方が変わるのだ。
それは、自分だけではなかなか到達することのできない世界だ。
これを読んでいるみなさんも、自分の何かを変えようとするのなら、ぜひとも「場」に行ってみるということを押すすめする。
新しい感覚がつかめるはずだ。
ただし、本当に自分の中にその感覚を定着させようとするのなら、それなりのリソースがいるかもしれない。
一瞬で受け入れるだけの度量か、あるいは、じわじわと受け入れていくための時間といったところだろうか。