「再録:はやくたくさんの文章を書くコツ」

私は2015年の9月から、無料のメルマガを配信している。

 

メルマガ「REenのメールマガジン」

 

その中では、コーチングを理解するためのさまざまな記事を書いてきた。

古い記事は、最近になってメルマガに登録された方は読めない状態だ。

「読みたい」という声をよくいただく。

そこで「再録」シリーズとして、加筆修正した古い記事をこちらのブログに少しづつ掲載することにした。

役立てていただけると幸いだ。

今回は「はやくたくさんの文章を書くコツ」という話題だ。

 

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先日、どうしてそんなにたくさん文章を書けるのですか、という質問をいただきました。

確かに、わたしはブログ、Facebook、メルマガ、ツイッター、ブログ記事の寄稿といった情報発信に加えて、それ以外にも趣味で文章を書いたりしています。

この執筆量は我ながらなかなかのものだと思います。

どうしてたくさん書けるのかというと、それはたくさん書いてきて慣れたからだとしか言いようがないのですが、それでは身も蓋もないので、ひとつヒントをお伝えしたいと思います。

それは「概念のゲシュタルト(かたまり)を持つ」

ということです。

これだけではわからないと思いますので、どういうことか説明しましょう。

たとえば、コーチングには「ドリームキラー」という概念があります。

このドリームキラーに関する話題を、ひとまとまりのゲシュタルト(かたまり)として認識するのです。

言葉で表現してみると、「ドリームキラーとは、ゴールを設定すると自分の周りに登場する、ゴールを批判したり、邪魔したりする存在である。彼らはあなたがゴールを設定したせいで自分たちのコンフォートゾーンが乱されたと感じ、元の状態を取り戻すためにそのような行動をとる。彼らに対する一番の対策は、そもそもゴールを言わないことであり、万が一行った場合は徹底的に無視するか、論理的に反論をすべきである。なお、自分の中で現れる、ゴールへ向けてコンフォートゾーンを移行していくことへの抵抗感も広義にはドリームキラーといえる、、、」といったところでしょうか。

いまわたしは、この説明を一呼吸で書きました。

これはわたしの頭の中にはドリームキラーという概念のかたまりがあり、その中に具体的内容が書き込まれているからです。

そのかたまりを、文章を書くときに、必要な場所へそのままバコンとはめ込む、そのような作業をいくつもやっているから、はやくたくさん書くことができます。

そんなことできないよ、と思われるかもしれません。

これは普段からの習慣で身につけることができます。

ふだん、読書などの情報収集をする際には、まず抽象度の高い重要な概念を選び出し、そのゲシュタルト(かたまり)を形作るように頭の中に入れていくのです。

たとえるなら、パソコンのフォルダーのようなものを脳内に作り、それに情報を入れ込んでいくといった感じでしょうか。

そうすると、たとえばドリームキラーなどのフォルダーができるので、あとは文章の中で必要なときにそのまま記述する、といった感じです。

ポイントは、インプットの際に整理をしながら頭に入れるということです。

参考にしていただけると嬉しいです。

「論理、言語について」

現代ほど、言語運用能力が重要になっている時代はないのではないだろうか。

根拠は単純で、書く機会が爆発的に多くなっているからだ。

書くためには、読む、話す、聞くにもまして、論理性が重要となる。

しかし残念なことに、日本の公教育の中でそれを期待することが難しいのが現状だ。

なぜなら、日本の国語教育は、相変わらず文章の「解釈」もっと遠慮なく言えば「感想」に終始しているからだ。

文部科学省の小学校学習指導要綱を読んでみると、「論理性」「適切な表現」「正確な理解」「伝え合う力」「思考力」「想像力」を身につけることを目的としているようだ。

しかし、これらを満たした状態が「具体的に」どういうものなのかは、定義されていない。

結果的に、文章を主観的に捉える側面だけを助長するような、極めて偏った指導が横行してしまっていると感じる。

もちろんそこでは、文章を「なるべく」客観的に捉え、自分の意見を論理的に構築し、言語表現に落とすという指導は期待できるはずもない。

このように考えていくと、日本人の生産性を上げるためには、国語教育を改善することが望ましいとわかる。

そこまで大げさな話でなくとも、まっとうなビジネスパーソンであれば、言語運用能力を高めていこうという意識的努力はあってしかるべきだ。

そのような問題意識で、記事を書いたのが、以下に紹介するものだ。

私がいままでやってきた、論理、言語を鍛えるアプローチの一部を紹介している。

まだ記事にしたことはないが、ここに「トゥールミン・ロジック」の訓練が加われば、なおいいだろう。

 

身も蓋もないから誰も言わない、文章力を上げるためのトレーニング法

論理的思考力(ロジカルシンキング)を鍛える第一歩

文章力講座〜多くの人に届く文章の設計方法

「資料作成」

明日は、岐阜で講演会がある。

かねてから懇意にしているお医者によんでもらった。

そのための資料作成がいよいよ大詰めになっている。

といっても、もうほとんど仕上がっていて、あとは最終調整を少しするくらいのものだ。

 

50分という比較的短い持ち時間であり、相手が一般の方なので、さほど高度なことは話さない。

それゆえ、資料もA4一枚に収まった。

 

サイズはどうあれ、資料に落とし込む能力は、以前よりも格段に高まったと感じる。

質はもちろんだか、かける時間の違いが顕著だ。

もちろん、時間が短縮されたということだ。

でも、まだまだ改善できると思う。

『クリエイティブ(創造的)な仕事をしたい人が知っておくべきこと』

私の別ブログの記事の紹介。

「クリエイティブ」と目される職業に従事している人と、多く関わった時期がある。

そういう人たちは、自分のことをクリエイティブであると自認しているのだが、どうしてもそうは思えないことが多々あった。

そのころの違和感を解消するために、コーチングの理論に基づいて、

・クリエイティブとは何か

・どうすればクリエイティブであると言えるのか

・何がクリエイティブではないのか

などについて論証してみようと意図した記事だ。

なお、私のブログの中では、この記事が一番読まれているようだ。

クリエイティブ(創造的)な仕事をしたい人が知っておくべきこと

「言語運用能力」

たいへんありがたいことに、最近どんどんと忙しくなっている。

もちろん、自分でそういう人生を作っているのだが。

結果的に、魅力的な提案であっても、断らなくてはならない事態も生じている。

何に重要性を持たせるかを、常にゴール側からダイナミックに判断し続ける必要を一段と感じている。

 

言語運用能力をもっともっと高める必要もまた、痛烈に感じる。

現代における仕事の大半(あるいは、少なくとも私の担うべき役割としての仕事)には、言語が大きく関わっている。

メールもそうだし、このような情報発信もそうだし、その他もありとあらゆる業務に、言語を運用するという能力が参加する。

だとすると、言語の運用能力が高まれば、それだけたくさんの仕事をこなすことができるということだ。

私は、文章を書くことの質も量も高い方だと自負しているが、世界トップレベルから考えれば、まだまだ物足りないと考えている。

また、文章を読み、情報を処理する能力もそれなりだと思うが、まだまだ理想には程遠い。

自分のゴールがたいへん大きなものであり、その中に仕事のゴールも入っている以上、言語運用能力を高めていくことは極めて優先度の高い課題であり続ける。

 

多くの人にとってもそれは同様だと思うのだが、どうなのだろうか。

いずれ、言語運用能力を鍛えるようなレクチャーを提供したいと考えている。

今はまだ無償で情報をシェアするので、もし言語運用能力を真剣に高めたいと思う方がいれば、連絡をいただければと思う。

「どのくらい書いているか」

たとえば昨日、どのくらいの文字をどのくらいの時間かけて書いているのかを思い出してみた。

すると、時間にしてみればだいたい2〜3時間程度で、文字数は推定5000〜6000文字くらいだったように思う。

時間の方はその時間ずっと書き続けているわけではない。

細切れに取り組んだ時間を合計したものだ。

文字数も、このブログのように表に出したものだけではなく、仕事上書いたものまで含める。

 

この時間が長いのかどうかもわからないし、文字数が多いのかどうかもわからない。

しかし、時間はさておきとしても、文字数はもっともっと増やすことができるのではないかと思っている。

これらの指標には現れていないが、文章の質ももっと高められるはずだと感じる。

 

つくづく書くことは自分にとってとても大切なのだなと感じる。

書くことがすなわち生きること、と言ったら大げさかもしれないが、それに近いものを感じる。

書く楽しさを人に伝えていくことも、自分のゴールのひとつだ。

「書くことが楽である」

このブログの文章を書くのは、すごく楽だ。

1日こればかりやっていれば、ものすごい量の記事が書けると思う。

なんでだろう、と考えてみた。

物事を考えるとき、何かの比較対象があるとよい。

その差異から、本質が見えてくるからだ。

私のブログに『REen』というものがある。

これは、コーチングの理論を用いて、世の中の問題に対する解を示すというはっきりとした目的がある。

また、読者に問題を解決するヒントとして活用してもらう以外にも、読者がコーチングを理解していくための読み物という機能も持たせている。

だから、コーチングをまったく知らない人が読んでも、ひっかかるところがないように書いている。

もちろん、読むのには論理的思考を要求するので、その点でついていけないという人はいるかもしれない。

しかし、用語がわからなくて理解不能であるという状態にはならないはずだ。

そのため、用語の定義や運用にはかなり気を配って書いている。

だから書くのに非常に時間がかかるのだ。

それに対して、このブログでは、いま言ったようなことをほとんど意識していない。

なぜなら、一つの記事で何かを伝える作業を完結するというパッケージではなく、ブログのたくさんの記事全体をなんとなく読むことで、大きなゲシュタルトが出来上がることを期待しているからだ。

だから、あまり厳密にひとつひとつの記事を書く必要がない。

いろんな記事を気の赴くままに読んでもらえると嬉しい。

「理由2」

なぜこのブログをはじめたのだろうか。

別の理由がまた見えてきた。

 

私が発信している情報は、メインブログ、フェイスブック、メルマガ、ツイッターがある。

それぞれ役割が違うが、共通しているのはコーチングの話題であるということだ。

 

まず最初に、「書きたい、表現したい」という欲求がある。

そもそものその対象は渾然としたものとして現れる。

その中から、コーチングの話題にうまく接続出来そうな対象を選びだし、コーチングの理論で切り出すことで、言語化をしていく。

必然的に、その条件に合わない対象は切り捨てられていくことになる。

しかし、これらは、依然として私の中に行き場を失った形で留まり続ける。

この状態が苦しいのだ。

どうしても言語にしていかなければ、頭がパンクしそうになる、そのことに気づいたのは最近だ。

 

コーチングの理論は非常に多くの現象を分析することができるし、多くの問題を解決するための指針を打ち出すことができる。

それゆえ、書く話題には事欠かないため、いつのまにかコーチングとは「関係させる必要のないと思える」対象が、私の中で積もり積もることとなった。

でも、そういった対象であっても私の中から出てきた、私の一部なのだ。

無視し続けることは困難なことだ。

 

そういったコーチングとは関係のない対象をどう切り出すかを経由することで、かえってコーチとしての私の姿を伝えることができるかもしれない、そうも思う。

「別れの手紙 和訳文 (三好徹 訳)」

フィデル

いまこの瞬間に、ぼくは多くのことを思い出している。

マリア・アントニアの家で初めてきみに逢ったときのこと、ぼくに一緒に来ないかと誘ってくれたときのこと、そして準備をすすめているときのあの緊張の全てを。

ある日、死んだ場合には、誰に報せたらよいか、と訊かれたことがあった。

そして、そういう現実の可能性に、ぼくらはみな衝ちのめされてしまった。

その後ぼくらは、それがあり得たことで、革命においては――それが真の革命であれば――人は勝利を得るか死ぬかだということを学んだのだ。

多くの同志が勝利にいたる道程で倒れてしまった。

今日ではあらゆる事がさほど劇的には感じられないが、それはぼくらが成熟したからで、現実は繰返されているのだ。

ぼくはキューバ革命において、その地でぼくに課せられた義務の一部を果たしたと思う。

で、きみに、同志に、そしてきみの、いまはぼくのものでもある国民に別れを告げる。

党指導部における地位、大臣の地位、少佐の位階、キューバの市民権を、ぼくは公式に放棄する。

法的にぼくをキューバに結びつけるものは、もう何もない。

といっても、辞令を出せばできるようには、あっさりと断ち切ることのできぬ種類の絆が残るが。

過去をかえりみると、革命の勝利を不動のものとするために、ぼくは誠実かつ献身的にこれまで働いてきたと信じている。

ぼくになんらかの誤りがあったとするなら、それは、シエラ・マエストラの初期のころ、きみにじゅうぶんな信頼を置かなかったことと、指導者ならびに革命家としてのきみの資質をさほど早く理解しなかったことだ。

ぼくは素晴らしい日々を生きてきた。そしてカリブの輝かしくも苦しい日々に、きみのかたわらにあって、わが国の国民であることを誇らしく感じたものだ。
あのころのきみよりも優れた政治家なんていないだろう。

そしてまた、ぼくはきみに躊躇なく従い、きみの考え方を身につけ、ぼくらがおかれていた危機や原則を理解し評価したことを誇りにしている。

いま世界のほかの国が、ぼくのささやかな力添えを望んでいる。

きみはキューバの責任者だからできないが、ぼくにはそれができる。

別れの時がきてしまったのだ。

喜びと悲しみのいりまじった気持ちで、こんなことをするのだ、と察してほしい。

ぼくはこの地に、建設者としての希望のもっとも純粋なもの、そしてぼくがもっとも愛している人々を残して行く……またぼくを息子のように受け入れた国民からも去って行く、それはぼくをとっても悲しい気持ちにするのだが。

ぼくは、新しい戦場に、きみが教えてくれた信念、わが国民の革命精神、もっとも神聖な義務を遂行するという気持ちをたずさえて行こう、帝国主義のあるところならどこでも戦うために、だ。

それがぼくを慰め、深い心の傷を癒してくれる。

繰りかえすが、これまで模範であったことから生ずる責任を除いて、キューバに関する一切の責任から解放されたことをいいたい。

もし異国の空の下で最期の時を迎えるようなことがあれば、ぼくの最後の思いは、この国の人びとに、とくにきみに馳せるだろう。

きみのあたえてくれた教えやお手本に感謝したい。

そしてぼくの行動の最後まで、それに忠実であるように努力するつもりだ。

ぼくは、わが革命の外交政策にいつだって自分を同化してきたし、これからもそうであり続けるだろう。

どこにいようとも、ぼくはキューバの革命家たる責任を自覚するだろう。

そのように行動するだろう。

ぼくは妻子には何も残さなかった。それを後悔するどころか、むしろ満足している。

国家がかれらの必要とするものや教育をあたえてくれるだろうから、

ぼくがかれらのためにもとめることは何もない。

きみやわが国民にいいたいことは尽きないのだが、その必要はないようだ。

言葉はぼくのいわんとすることを表現できないし、これ以上は紙をよごすに値しない。

永遠の勝利の日まで、祖国か死か。

ありったけの革命的情熱をこめてきみを抱擁する。

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