「父」

数年前から父は、森や山や農作物や木などに興味持ちはじめていた。

テレビ番組でそういった特集があると、集中して見ていたのを覚えている。

 

1年半ほど前、私の父は40年以上勤めた自動車関連の会社を退職した。

会社には嘱託として残ってもらえるよう言われていたようで、ずいぶんと悩んだようだったが、結局は断ったそうだ。

幸いというかなんというか、広島の山奥にある母親の生家が、だれも住んでいない状態になっていたので、そこを手入れすることを思いついた。

たまに出かけて行って掃除をしたり、草刈りをしていた。

 

ちょうどそのころの私は、コーチングのライセンスを取り、コーチとしての活動を本格化させたことところだった。

コーチングを勉強する中で、個人が自分の人生をどのように考え、どのように創っていくべきかについて学んだ。

と同時に、個人の人生がどのように外部からの情報によって侵食されるかについても深く学んだ。

もちろん当初は、自分のためである比重が多かったが、学べば学ぶほどに、より多くの人に伝えねばならないという気持ちが湧いてきた。

私は父親に対してコーチングをしようと決めた。

 

実家に帰った際、父親の話を聞き、父親に働きかけを行った。

ひととおりの話が終わった後、私はコーチングというものについての説明をした。

個人が自分の心からやりたいことをやるべきであり、それをバックアップする科学的な理論が存在するのだという話をした。

その話を聞いた父は、

「そういうものにもっと早く出会っていればなあ」

と言った。

そして、

「おれの40年はなんだったんだろうな」

と続けた。

コーチとして活動する中で、唯一だと思うが、そのときは適切な対応ができなかった。

 

その後、私が実家に帰った際には、父のやりたいことに関する話を聞いた。

自分がやっている活動に関しても、なるべく説明するように心がけた。

父はだんだんと自分のやりたいことへの確信を深めていっているように思えた。

 

この年末、前職を退職してのちを総括するような話になった。

父はたくさんのことをやった。

母親の生家の大掛かりな修繕を自分でやり(台所の床をすべてはがし、張り替えたそうだ)、40種類以上の作物を植え、収穫した。

自伐林業に関する講習会に続けて参加し、日本の林業の現状と問題点、抽象化された理論と具体的な技術(チェーンソーにまつわる知識は興味深いものだった)について学んだ。

地域の農業のベテランに師事し、作物に関する細かい知識をレクチャーしてもらいつつ、実際に真似をし、交流を広げていった。

広島市内の、仕事を引退した人を中心に結成された、木を切る活動をする集まりに参加し、ボランティアで木を切って回った。

バイトも兼ねて、造園業のお手伝いをはじめ、親方について個人宅の庭に入り、松などの手入れをするようになった。

そのほか、ここには書ききれないくらいの活動を行った。

昨日、お好み焼きを食べながら父は、日本の農業や林業の未来を、そして自分がこれからやりたいことを、自身の政治観・現実の政治家たちの政策と絡めながら、私に語って聞かせてくれた。

 

私はこういうとき、人間には無限の可能性があるのだというルー・タイスの信念をいつも思い出す。

そして、深い喜びとともに、明日からもまたコーチとして自分は生きるのだという決意を新たにする。

私の父の40年は決して意味のないものではない。

私という人間はその40年がなければここには存在しておらず、心から感謝している。

ただ、その40年に縛られながら人生の後半を過ごしてもらうのは、私に取っても本意ではなかった。

父の未来を作るお手伝いがほんの少しだけできたのかなと思った。

 

いま、父が幸せなのかどうかは私にはわからない。

なぜならそれは、父自身が決めることだからだ。

しかし、少なくとも、幸せそうには見える。

人間の幸せとは何かと考えたとき、理想を持ち、その理想に向かって毎日クリエイティブに過ごすことだと答える。

いまの父は、そのような日々を送っているように見える。

「豆腐と記憶と坊主の話」

広島県神石郡にある、神石町相戸というところにいる。

母親の生家だ。

普段はもうここには誰もいないのだが、広島市内にいる私の両親が、週末に訪れ、野菜を作ったり、家をメンテナンスしたりしている。

私が実家に帰ったときにタイミングがあえば、一緒に訪れる。

 

広島の実家からは車で約2時間半かかる。

途中、三次町で下車した。

そこに有名な豆腐屋さんがあり、そこでは食事も出しているので、昼ごはんを食べることにした。

厚揚げ、冷奴、豆乳、湯葉のてんぷら、油揚げ、大豆の入ったひじき、豆腐がたっぷりの豚汁に五穀米という内容だった。

食事をすませ、神石町相戸までの道のりは一時間といったところだ。

私が小さい頃の話になった。

 

私は広島市の牛田というところに住んでいた。

当時住んでいたのは一軒家で、となりにはアパートがあった記憶がある。

アパートに住む大学生くらいの青年の部屋に、小学校低学年の私と、幼稚園の弟はよく遊びに行っていた。

青年の彼女も相手をしてもらうこともあった。

青年がアパートを出るとき、ファミコンのソフトだかなんだかをくれた。

もちろん彼が今どうしているかなんてわからないし、名前も顔も覚えていない。

 

実は、そのアパートが建つ前には、ボロい一軒家が建っていたそうだ。

私はそのことをまったく覚えていなかった。

そしてそこには、かなり「おかしな」男が住んでいたそうだ。

私と弟が騒いでいると、窓を大きな音をたてながら威嚇したり、近くの川に向かって大声をあげていたり、そうかと思えば、坊主が着るような「袈裟」を身につけてどこかに出かけていくこともあったそうだ。

あげくの果てに、職場からの連絡先として、私の家の電話番号を電話帳で調べ、勝手に申告していたそうだ。

職場はとある寺だったそうなのだが、そこから我が家に電話がかかってきたことで、その事実が発覚した。

親切な母は取り次いであげたそうだが、今の時代であればあり得ないことかもしれない。

怖い話だ。

やがて男はどこかに行ってしまい、ボロい建物は取り壊され、アパートが建つこととなった。

 

驚くべきことに、これら一切のエピソードを私は覚えていなかった。

これだけエキセントリックで印象的な男のことなのにだ。

小学校に入るか入らないかくらいのことだったので、無理もないのかもしれない。

また、あまりにトラウマティックな経験ゆえに、記憶を消してしまったのかもしれない。

幼少期に住んでいた家の隣の記憶は、あの優しい青年の住むアパートから始まり、そこで完結している。

「お知らせ」

明日から年始にかけて、普段は行っていないトライアルコーチングの募集を行う。

同時に、コーチングセッションのキャンペーンも行う。

詳細は明日の夜に発行のメールマガジンの中で案内する。

興味のある方は、メルマガに登録していただければ、内容が確認できる。

 

「帰省」

新大阪に来ている。

いまから新幹線に乗り、実家のある広島へと帰る。

年末年始を広島で過ごすのは、ずいぶんと久しぶりのような気がする。

指定席を取ろうかと思ったのだが、15時の時点で、19時の便まで指定席はいっぱいになっていたのであきらめた。

自由席の混雑した中で揺られながら帰ることにした。

 

荷造りをしていて改めて感じたのは、私の仕事の大部分はどこでもできるということだ。

もちろん、コーチングセッションや、セミナー、あるいは人との打ち合わせに関しては、時空の指定があるので、その限りではない。

しかし、その他の仕事(驚くべきことに、その他の仕事のほとんどすべてに言語が関わっている)は時間や場所を選ばず行うことが可能だ。

荷物のほとんどはそのために必要なものばかりだった。

とは言っても、PC、モバイル、充電器、資料、本、ノート、筆記用具、だいたいこれくらいだ。

より望ましい環境や時間帯はあるにはあるが、本質的には、これらがあれば、どこでも仕事ができる。

この調子で、活動範囲を広げていきたいと思う。

来年は、2箇所外国に行く予定がすでにある。

地球全体が遊びのフィールドであり、仕事の実践のフィールドだ。

「コミュニケーション」

一対一のコミュニケーションを想定してみよう。

その際には、「私」と「あなた」がいる。

そしてさらに、「私」と「あなた」と、「私とあなたの関係」がある。

少なくとも、この三者をなんらかの方向性を持ってマネジメントする必要がある。

もちろん、コミュニケーションに一定の目的を持っていなければ、そんな必要はない。

だから、目的があるということは前提としておく。

 

さて、この三者をマネジメントするには、どのような能力が必要だろうか。

ひとつ思いつくのは、視点移動の能力だ。

通常人は、自分という視点に強く縛られている。

なぜなら、その視点から世界を眺めることにより情報を収集し、同時に自分を構築していく必要があったからだ。

しかし、その自分という視点は、情報を収集していくための便宜上の機能である、言い換えれば、単なる仮の基準点に過ぎない。

つまり、それが絶対なわけではない。

にもかかわらず、その自分という仮の視点における情報収集を積み重ねてきた結果、まるでその視点が唯一絶対のもののように感じるようになる。

まずは、その視点がたまたま要請された仮のものであることを理解し、単に採用しているだけのものであると理解することからはじまる。

 

この理解があるとどのような認識が生まれるか。

単純で、視点はいくらでもあるという認識が生まれる。

この視点の獲得は、インパクトが大変大きい。

なぜなら、無限の視点の獲得に等しいからだ。

1から ∞(infiniti)への跳躍だ。

この視点の獲得することで、「あなた」の視点への移動が可能になる。

もちろん、「私」は「あなた」の物理的身体、つまり情報収集システムの物理的平面を持たないため、完全に「あなた」の視点を獲得することは難しい。

しかしながら、「私」が唯一絶対の視点であるという認識に縛られている状態よりは、はるかに「あなた」の視点に寄り添うことができる。

 

そして「私」も「あなた」も唯一絶対の視点ではないという認識が極まって来ればこそ「私」と「あなた」の関係を眺める視点にも移動していくことができる。

さらにその視点そのものを観察する視点を作ることもできるし、それは無限に高めていける。

このような階層性を持つ視点の集合内を移動しながら、現実世界になんらかのインパクトが生じるような働きかけを行う。

もちろんそれは最初に合意したように、ある方向性を維持しながらだ。

私の考えるコミュニケーションのマネジメントの、抽象的なモデルを記述してみた。

「関係性」

状況を変えたいのなら、自分の内側を変えることからはじめよう。

現代では、そのためのアプローチの説明原理として、科学的に構築されたモデルが用意されている。

もちろん、コーチングの理論だ。

 

自分の内面を変えることに長けてきたら、次は、自分と距離の近い関係性を変えるという点に注目してみよう。

ひとつ上の視点を作る必要があるので、こちらの方が応用的かもしれない。

そういった観点から書かれた記事だ。

 

自分に自信が持てない人のための処方箋(発展編2)

 

「くるみ」

最近は、くるみをよく食べている。

おやつとしてコーヒーを飲みながら食べることが多い。

1キロ1650円のアメリカ産のものを購入している。

味はまったくついていないもので、くるみの本来の味が楽しめる。

食べていて気がついたのだが、いま購入しているくるみは、少し油分が多いような気もする。

くるみの種類によって違うものなのだろうか。

他の種類のものもためしてみたいと思う。

「ゴールとエフィカシー」

コーチングでは、ゴール(goal)を設定するところから開始される。

多くの人は、ゴールは達成するために設定すると考えているが、これは正確ではない。

確かにそういう面もあるのだが、ゴールにはもっと重要な機能がある。

では、ゴールの機能とはなんだろうか。

ゴールの機能は、現在の人生を形作っているブリーフシステム(belief-system)の改変を促すことだ。

 

ゴールを設定することにより、その人のマインド(mind)の中で重要性(importance)の変化が起こる。

その結果、外界から入ってくる情報に変化が生じる。

なぜなら、外界から入ってくる情報は、マインドの中にある重要性に基づいて取捨選別されているからだ。

ちなみに、この取捨選別の機能面に注目した概念がRAS(reticular activating system)だ。

新しい情報は、これまでの重要性の中では知覚不可能であった、言い換えれば、これまでの情報となんらかの矛盾を引き起こすようなものだ。

すると、そもそも人間は統合的なゲシュタルト(gestalt)をひとつしか維持できないため(認識の矛盾状態を維持できないため)、それまでの情報と新しい情報との間で整合性がとれる認識を作り出そうとする。

その作用が、結果的に、価値判断のシステムであるブリーフシステムの改変につながることが期待できるのだ。

 

ゴールは現状の外側に設定しなさいと言われる。

これは、上記の文脈で考えるのなら、既存の重要性の埒外にある価値観に基づいて設定せよということである。

もし、それまでの重要性に基づいたゴールを設定したとしたら、いくらそれが「もっとも重要な」ゴールであったとしても、新しい情報は入ってこず、矛盾状態は起こらない。

矛盾状態が起こらなければ、ブリーフシステムは変わらず、コーチングのそもそもの目的である人生を変えるということができない。

 

さて、既存の情報と矛盾するような新しい情報に人間が接したとき、どのような反応が生じるのだろうか。

端的に言えば、苦しくなる。

おそらくこれは、人間が生体を維持するために安定的な状態を維持しようとするホメオスタシス(homeostasis)の作用なのだろう。

不安や恐怖、拒絶感や違和感を感じさせることで、新しい情報の受け入れを実際に拒否させたり、延期させたりする。

それでもそういった新しい情報を取り込み、意図的にマインドの中に矛盾を作り出すことが、人生を変えるのには必要であることは既に書いた。

ではその苦しさはどう乗り越えるべきだろうか。

そのために、エフィカシー(self-efficacy)という概念がある。

エフィカシーとは「ゴールを達成するための自己の能力の自己評価」のことであるが、この概念は相対的なものであることに留意してほしい。

つまり、何かしらの担保を求めるものではなく、自分で自分の能力を絶対的に評価する力であるということだ。

苦しいときに人は、やっぱり自分には無理なのかなと感じる。

これをあえて論理的な推論として記述すれば、

 

こんなに苦しい→続けられるはずがない

こんなに苦しい→自分には才能がない

こんなに苦しい→そもそも自分のゴールではない

 

この推論自体は論理的ではないのだが、苦しいが故にこういう短絡的推論に飛びついてしまう。

このような不完全ながらの推論や、あるいは、苦しいという状況そのものを脱構築するような、封じ込めるようなマインド内部での力学が必要になる。

そのためのエフィカシーだ。

つまり、

「確かに苦しい。無理な理由もいろいろと湧いてくる。でも自分にはゴールを達成できる能力があるはずだ。理由? そんなものはない。あえて言うならば、自分でできると決めたからだ」

こういう方向を持つエネルギーがマインドの中にあることで、正しいゴール設定の際に生じる苦しさを相対化していく力学が生まれるのだ。

「再録:ドリームキラー対策」

私は2015年の9月から、無料のメルマガを配信している。

 

 

その中では、コーチングを理解するためのさまざまな記事を書いてきた。

古い記事は、最近になってメルマガに登録された方は読めない状態だ。

「読みたい」という声をよくいただく。

そこで「再録」シリーズとして、加筆修正した古い記事をこちらのブログに少しづつ掲載することにした。

役立てていただけると幸いだ。

今回は「ドリームキラー対策」という話題だ。

 

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ゴールを設定し、それに向かって進もうとしているのだが、ドリームキラーに気持ちをくじかれてしまうという話をよく聞きます。

ドリームキラーとは、あなたのゴールを否定する人のことでした。

つい先日もそのような相談を受けました。

コーチングの理論に基づけば、ゴールを設定した以上このような事態になるのは当然のことです。

むしろ、正しくゴールを設定できているからこそ、ドリームキラーが現れるのです。

あなたが大きなゴールを設定すれば、過去のあなたとして接する周囲の人は、自分の居心地の良い空間を乱されたように感じ、あなたのゴールを否定するような行動をとるからです。

さて、そんなときにどうするべきかの一つの考え方として、ドリームキラーとは物理的な距離をとってしまうという方法があります。

日常接することがなければ、いかにドリームキラーといえども、あなたに強い干渉をすることはできません。

単純ですが、非常に効果的なドリームキラー対策と言えるでしょう。

また、このようなドリームキラー対策は、逆向きに考えて応用することもできます。

つまり、ドリームキラーから物理的な距離を取ればいいという考え方をひっくり返して、ドリームサポーターへと物理的な距離を近づけると考えるのです。

これに意識的に取り組むと、あなたのゴールへと進むペースは一気に加速することでしょう。

参考にしていただけると幸いです。

「疲れ」

疲れが溜まっていたようで、どうにも仕事がはかどらなかった。

午前中から15時くらいにかけては、家で仕事をして眠ってを繰り返していた。

たまにこういう日がある。

ここ最近、どんなスケジュールを過ごしてきたか確認をしてみた。

そうすると、3週間くらいかなりハードな日々であることがわかった。

おまけに、その中で自分のゲシュタルトが根底から破壊されるようなインパクトのある学び、気づきが何度もあった。

そりゃあ疲れるわけだなと思いながら、同時にいくつかのことを考えた。

 

プロのアスリートは、疲労との折り合いのつけ方がとても大切であると聞いたことがある。

いかにトレーニングをするかよりも、いかに休むかのほうが難しく、重要であるそうだ。

プロになる人なのだから、トレーニングに一生懸命取り組むことは当たり前のことなのだろう。

だから、むしろ休む技術のほうで差が出る、そういうことなのかもしれない。

 

私はプロのアスリートではないが、やっていることはプロの活動なわけだから、基本は同じだと思う。

疲労を上手にマネジメントしながら、日々の知的向上を最大化し、社会へ果たす役割の水準を最大化する。

このような観点からいまいちど日々の過ごし方を見つめ直す必要があるようだ。