「Haruki Murakami」

http://村上春樹さん、来年2月に4年ぶり長編小説 全2冊

 

昔から小説が好きでよく読んでいたが、最近では、ほとんど読まなくなってしまった。

小説以外の読むべき本がたくさんあるからだ。

そんな中、唯一新作を心待ちにしている作家が村上春樹だ。

ついに長篇が出るそうだ。

物語に浸る準備をしておこう。

「グレート・ギャツビー」

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』が好きだ。

完全に美しい物語だからだ。

美しい話であるという意味ではない。

物語が持つ、多次元的な構造として完全に美しいという意味だ。

もちろんそれは、翻訳した村上春樹の力量に依るところが大きい。

英語の原著にチャレンジしたこともある。

古風で複雑な英語表現(だそう)なので、私の英語力の範疇を大きくはみ出していると感じた。

しかし、なぜだかわからないが、それが美しい物語であるということは伝わってきた。

それは、私が「この小説は美しい物語である」と決めているからかもしれない。

「批評家と小説家」

村上春樹が「悪い批評とは馬糞がたっぷりと詰まった馬小屋のようなものである」と言っていた。

さっさとその場を立ち去るべきであり、なぜこんなに臭いのかなどとは考えてはいけないのだそうだ。

 

批評というか、人の意見をどういう風に受け止めるかは難しい問題だ。

意見と人格をしっかりと切り離しておかなければ悶着のもとだろう。

本来ならば「何が言われているか」でのみの判断が望ましいのだろうが、どうしても「誰が言ったのか」も重要になってくる。

単なる批評家が言ったのかと、小説家でもある人が批評をしたのかによって、受け取る方は違った印象を持つということだ。

ただ安全な守られた場所にいる人が訳知り顔の人が、言ったことなのか。

あるいは、自分自身も同じような批評にさらされるリスクを踏まえた上で言ったことなのか。

この違いはどうしても受け取り手の印象を大きく左右する。

 

自分はどうかといえば、批評家であるよりもまず先に、小説家でありたいと常に思っている。

そして批評家であっても、相手の可能性を最大限引き出すという結果を伴わないものを批評と正当化することだけはすまいと決めている。

そもそもがプラグマティストである私は、ルー・タイスの基本三原則である「be effective」の精神にとても深く共感しているのだ。

 

「読書の際には」

読書の際、気をつけていることは「最も抽象の高いメッセージを読み取る」ことだ。

このことを意識できると、読書の質がぐっと上がるだろう。

同時に可能であれば、「そのメッセージを元に、どのような構造がその本の世界に設計されているのか」を感じ取ることも行うとよい。

 

ただし、いずれも「小説」を読む際にはあまりおすすめできない。

「小説」は、一言一言が目の前で展開され、結果として全体像のようなものが立ち上がるという「プロセス」を楽しむ種類のテクストだからだ。