「概念を結びつけてゲシュタルトを作る」

ゴール(goal)

コンフォートゾーン(comfortzone

エフィカシー(self-efficacy)

 

といった、コーチングの中心概念が、以下の記事では登場する。

 

ゴールを設定するということは、現在のコンフォートゾーンとは違った新しくコンフォートゾーンにするべき情報を、内部表現(internaized representation)の中に作るという作業である。

その際には、現在のコンフォートゾーンが優位であろうとする力が必ず働くため、それに引き戻されないような力が内部表現の中にあると望ましい。

そこで、その力の指標として、エフィカシーという概念を用意する。

エフィカシーがあれば、ともすれば現在のコンフォートゾーンに引き戻されそうな際に、自分はゴール達成する能力があるという確信でもって対抗することができる。

 

いま行った説明は、三つの概念を結びつけて一つのゲシュタルトとして作ったが、取り得るゲシュタルトの形はこれだけではない。

むしろまだまだいくらでもあるだろう。

そのようなワークを常日頃から行うと、良い訓練になるだろう。

 

 

コーチングの理論で考える失敗しない転職の仕方

「コルトレーン」

最近はジャズが好きで、仕事をしながらよく聞いている。

なんにせよそうだが、たしなむ中で自分の好みの傾向がわかってくるものだ。

マイルス・デイヴィス、チェット・ベイカー、ビル・エヴァンス、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス、スタン・ゲッツ、ハービー・ハンコック、ウェス・モンゴメリー、チャーリー・パーカーなど、広く浅く聞いてきた。

どれも素晴らしいのだが、どうにも私はとりわけジョン・コルトレーンが好きだと感じた。

 

時期にもよるが、彼のサックスは基本的に能弁だ。

音数が多く、ストイックで、隙間をあまり作るようなプレイヤーではない。

ところが、不思議なことに暑苦しさや、けばけばしさを感じなかった。

これは一体どういうことだろうと思い、彼に関して書かれて本を読んでみた。

藤岡清洋『コルトレーン ジャズの殉教者』という本だ。

たいへんインパクトのあった内容を紹介する。

1966年に来日した際のインタビューでの台詞だった。

インタビュアーの「あなたはいまから10年後、20年後どのような人間になりたいですか」との質問に対して、彼は、

 

I would like to be a saint.

 

と答えた。

「私は聖者になりたい」という意味だ。

このやりとりをよんで、彼のプレイが醸し出している雰囲気の、ある種の不可解さ、おさまりのつかない感じが腑に落ちた気がした。

彼はジャズプレイヤーであるとともに、求道者、修行者であったのだ。

その証拠に、後年になるにつれて、彼は観念的、超現実的な作品を多数残している。

おそらく、作品を通して何か超越的な世界とつながっていくことを求めていたのではないだろうか。

いささか too much なサックスの音   ーーそれは何か救済を求めるような切迫感を感じさせるーー   の隙間を縫うように立ち上がる、清涼さ、荘厳な感じは、彼のゴール設定にあったのだと考えた。

 

彼が残した作品は膨大で、今もなお世に出回っていなかった作品が次々と発見されているという。

ゆっくりと彼の迫ろうとした情報世界を味わっていこうと思っている。

「マインドを作り込む」

1:コーチングでは、その人の人生を一瞬で変化させる。

2:コーチングでは、その人の人生を長時間かけて変化させていく。

 

この二つの命題は、矛盾するように見えるだろうか。

確かに、両命題を文字通り受け取り、いずれも「真」とするならば、これらは矛盾しているように見えるだろう。

しかし、これらの命題に別の条件を加えれば、両命題とも矛盾なく「真」となる。

そして、それはコーチングが採用する世界観そのものだ。

 

ここではこれ以上この話は深掘りしない。

 

2つ目の命題、「その人の人生を長時間かけて変化させる」という側面の最たるものが、アファメーション(affirmation)だ。

アファメーションを毎日唱えることで、少しづつそのひとのマインド(mind)は変化していく。

マインドが変化すれば、その人の一部である自己イメージ(self-image)が変わり、自己イメージが変われば行動(behavior)が変わる。

行動が変われば、人生が変わる。

アファメーションの基本について書いたのが、以下の記事だ。

アファメーションのプロセスを通じて、マインドを作り込もう。

 

あなたを成功に導くアファメーションの作り方

「そら」

 

私の実家には犬がいる。

気位が高く、難しいやつだ。

彼の名は「そら」という。

なぜそのような名前になったのかは不明だ。

コーチとして、彼の反応パターンを観察していると面白い。

 

・頭をなでると怒る

・怒ると噛み付くが、絶対に傷にならない程度におさめる

・こちらが横になっていると、顔をなめてくる

・出かけようとすると邪魔をする

・目覚まし時計の音にあわせて遠吠えをする

・誰も相手にしてくれないと、ねぐらに閉じこもる

・気をひくために、ティッシュを食べようとする

 

こんな感じだ。

 

彼は、人間のような言語運用能力と内省的意識を持たない。

よって、私たちが呼ぶ意味でのゴール(goal)を設定することもできなければ、無論、アファメーション(affirmation)を唱えることもできない。

それでもそれなりに幸せそうに見える。

それは、言語運用能力と内省的意識を持たないからこそなのかもしれない。

言語運用能力と内省的意識を持つ人間が幸せを感じるのには、ゴールとアファメーション(あるいは自分を変え続けるなんらかのツール)がそもそも必要だったのだろう。

コーチングを実践すればするほど、すでにある人間のマインド(mind)の精緻さに驚く。

コーチングの理論は説明として素晴らしいものだが、そもそもそれ以前に、人間のマインドが自然に持っている目的的志向(teleological)や、創造性(creativity)こそが素晴らしいのだと痛感させられる。

「再録:上手に学ぶために心がけるべきこと」

私は2015年の9月から、無料のメルマガを配信している。

 

 

その中では、コーチングを理解するためのさまざまな記事を書いてきた。

古い記事は、最近になってメルマガに登録された方は読めない状態だ。

「読みたい」という声をよくいただく。

そこで「再録」シリーズとして、加筆修正した古い記事をこちらのブログに少しづつ掲載することにした。

役立てていただけると幸いだ。

今回は「上手に学ぶために心がけるべきこと」という話題だ。

 

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長いこと教育業界にいました私としては、「学び」というテーマではお伝えしたいことがたくさんあります。

そこで今日は、「上手に学ぶために心がけるべきこと」についてお話ししたいと思います。

まず質問です。

学ぶことはどこを使ってやっているか考えてみてください、

考えてもらえましたか。

おそらく、「頭」や「脳」という答えを持たれたのではないでしょうか。

正解です。

しかし、その「頭」や「脳」という答えをもう少し掘り下げてみるとどうでしょうか。

これは推測ですが、根本には「言語活動」という認識があるのではないでしょうか。

学びとは「言語活動」の産物であり、それは「頭」や「脳」を使って行われるものである、そういった考えが根本にあるのでは、ということです。

実はこの考えでは、強烈な学びを手に入れることがなかなか難しいのです。
よく考えればわかるのですが、人間の全活動の中において、「言語活動」はごく一部でしょう。

言語活動以外とは、呼吸、映像のイメージ、記憶、血流、皮膚感覚などなど、いくらでもあげることができます。

「言語活動」に限った学びと、言語活動にそれ以外の感覚すべてを巻き込んだ学びでは、大きな差が出てくるように思えませんか。

無意識の領域も含めた、言語活動以外の人間の活動すべてを動員したほうが、より深く、多く、早く学べるような気がしませんか。

実際にそうなのです。

「言語活動以外の感覚すべて」を便宜上「体」といいましょう。

学びの質はは、この「体」をどこまで用いて行えるかに大きく左右されます。

普段の学びの中で、「体」をどこまで用いているか、まずはそのことに意識を向けてみてください。

それだけでもいろいろな発見があるはずです。

「ゲシュタルトの破壊と統合、そのスピード」

コーチング(coaching)にはゲシュタルト(gestalt)という概念がある。

いきなり余談だが、理論社会学(theoretical sociology)

にも同様の概念が重要なものとして扱われている。

といっても、理論社会学の枠組みの中では、ゲシュタルトという用語を使うわけではない。

定常システム(steady system)と呼ばれる。

この概念にはゲシュタルトと同様、「部分と全体が双方向的に織りなす全体」、「部分の総和は全体を超える」という含意がある。

定常システムという考え方は、70〜80年代に登場し、固まってきた考え方なのだそうだ。

心の学問が、行動主義(behaviorism)というパラダイムから、認知科学(cognitive science)関数主義(functionalism)へと変わってきたように、理論社会学の分野でも、均衡システム(balance system)から定常システムのパラダイムシフトがあったようだ。

 

さて、なぜゲシュタルトという概念がコーチングの中で用意されているのかと言えば、人間のマインド(mind)をゲシュタルトとして表現したいからだ。

部分と全体が双方向的に関わり合いながら、マインドを形成している。

そのマインドを変える、あるいは正しく使うことで、ゴール(goal)へと進んでいくことができる。

そのためには、過去接した情報の積み重ねによって出来上がった現在のゲシュタルトを破壊し、ゴールに向かえるように再構築しなければならない。

 

どのように破壊するのかと言えば、過去の情報との矛盾する情報を入れることだ。

コーチングでは、現状を超えるゴール設定(goal setting beyond the status quo)によってその機能が果たされる。

認知的不協和(cognitive dissonance)という概念がある。

人間は、二つ以上の矛盾する認識を維持できないという考え方だ。

認知的不協和があるため、創造的無意識(creative subconsciousness)が働き、矛盾した情報が入ってきたとしても、最終的にはなんらかの整合性を持った全体として安定状態に収束する。

このプロセスを、ゲシュタルトの破壊と再構築と考えることができる。

 

今回私が注目しているのは、ゲシュタルトの再構築までのスピードだ。

矛盾する情報が入ってきたとして、その情報もゲシュタルトの自然な一部として取り込む形に再構築するまでの時間は、何によって決まるのだろうかという問題意識があるのだ。

そこで、文章を書きながら考えていたのだが、ひとつはエフィカシー(self-efficacy)が関係しているのかもしれないと気がついた。

エフィカシーとは、「ゴール達成のための自己の能力の自己評価である」とコーチングでは定義されている。

確か、アルバート・バンデューラ(Albert Bandura)によると、エフィカシーが高く維持できている人は、困難な出来事に直面しても回復力が高いという記述があったような気がする(出典がさだかではないので確認する必要がある)。

これが正しかったとして、ゲシュタルトの破壊が精神の一時的な困難と考えれば、エフィカシーの高さが再統合までのスピードを決定する、と言えるかもしれない。

ただ、何か別の考え方もあるような気がする。

しばらく考えてみようと思う。

 

「父」

数年前から父は、森や山や農作物や木などに興味持ちはじめていた。

テレビ番組でそういった特集があると、集中して見ていたのを覚えている。

 

1年半ほど前、私の父は40年以上勤めた自動車関連の会社を退職した。

会社には嘱託として残ってもらえるよう言われていたようで、ずいぶんと悩んだようだったが、結局は断ったそうだ。

幸いというかなんというか、広島の山奥にある母親の生家が、だれも住んでいない状態になっていたので、そこを手入れすることを思いついた。

たまに出かけて行って掃除をしたり、草刈りをしていた。

 

ちょうどそのころの私は、コーチングのライセンスを取り、コーチとしての活動を本格化させたことところだった。

コーチングを勉強する中で、個人が自分の人生をどのように考え、どのように創っていくべきかについて学んだ。

と同時に、個人の人生がどのように外部からの情報によって侵食されるかについても深く学んだ。

もちろん当初は、自分のためである比重が多かったが、学べば学ぶほどに、より多くの人に伝えねばならないという気持ちが湧いてきた。

私は父親に対してコーチングをしようと決めた。

 

実家に帰った際、父親の話を聞き、父親に働きかけを行った。

ひととおりの話が終わった後、私はコーチングというものについての説明をした。

個人が自分の心からやりたいことをやるべきであり、それをバックアップする科学的な理論が存在するのだという話をした。

その話を聞いた父は、

「そういうものにもっと早く出会っていればなあ」

と言った。

そして、

「おれの40年はなんだったんだろうな」

と続けた。

コーチとして活動する中で、唯一だと思うが、そのときは適切な対応ができなかった。

 

その後、私が実家に帰った際には、父のやりたいことに関する話を聞いた。

自分がやっている活動に関しても、なるべく説明するように心がけた。

父はだんだんと自分のやりたいことへの確信を深めていっているように思えた。

 

この年末、前職を退職してのちを総括するような話になった。

父はたくさんのことをやった。

母親の生家の大掛かりな修繕を自分でやり(台所の床をすべてはがし、張り替えたそうだ)、40種類以上の作物を植え、収穫した。

自伐林業に関する講習会に続けて参加し、日本の林業の現状と問題点、抽象化された理論と具体的な技術(チェーンソーにまつわる知識は興味深いものだった)について学んだ。

地域の農業のベテランに師事し、作物に関する細かい知識をレクチャーしてもらいつつ、実際に真似をし、交流を広げていった。

広島市内の、仕事を引退した人を中心に結成された、木を切る活動をする集まりに参加し、ボランティアで木を切って回った。

バイトも兼ねて、造園業のお手伝いをはじめ、親方について個人宅の庭に入り、松などの手入れをするようになった。

そのほか、ここには書ききれないくらいの活動を行った。

昨日、お好み焼きを食べながら父は、日本の農業や林業の未来を、そして自分がこれからやりたいことを、自身の政治観・現実の政治家たちの政策と絡めながら、私に語って聞かせてくれた。

 

私はこういうとき、人間には無限の可能性があるのだというルー・タイスの信念をいつも思い出す。

そして、深い喜びとともに、明日からもまたコーチとして自分は生きるのだという決意を新たにする。

私の父の40年は決して意味のないものではない。

私という人間はその40年がなければここには存在しておらず、心から感謝している。

ただ、その40年に縛られながら人生の後半を過ごしてもらうのは、私に取っても本意ではなかった。

父の未来を作るお手伝いがほんの少しだけできたのかなと思った。

 

いま、父が幸せなのかどうかは私にはわからない。

なぜならそれは、父自身が決めることだからだ。

しかし、少なくとも、幸せそうには見える。

人間の幸せとは何かと考えたとき、理想を持ち、その理想に向かって毎日クリエイティブに過ごすことだと答える。

いまの父は、そのような日々を送っているように見える。

「豆腐と記憶と坊主の話」

広島県神石郡にある、神石町相戸というところにいる。

母親の生家だ。

普段はもうここには誰もいないのだが、広島市内にいる私の両親が、週末に訪れ、野菜を作ったり、家をメンテナンスしたりしている。

私が実家に帰ったときにタイミングがあえば、一緒に訪れる。

 

広島の実家からは車で約2時間半かかる。

途中、三次町で下車した。

そこに有名な豆腐屋さんがあり、そこでは食事も出しているので、昼ごはんを食べることにした。

厚揚げ、冷奴、豆乳、湯葉のてんぷら、油揚げ、大豆の入ったひじき、豆腐がたっぷりの豚汁に五穀米という内容だった。

食事をすませ、神石町相戸までの道のりは一時間といったところだ。

私が小さい頃の話になった。

 

私は広島市の牛田というところに住んでいた。

当時住んでいたのは一軒家で、となりにはアパートがあった記憶がある。

アパートに住む大学生くらいの青年の部屋に、小学校低学年の私と、幼稚園の弟はよく遊びに行っていた。

青年の彼女も相手をしてもらうこともあった。

青年がアパートを出るとき、ファミコンのソフトだかなんだかをくれた。

もちろん彼が今どうしているかなんてわからないし、名前も顔も覚えていない。

 

実は、そのアパートが建つ前には、ボロい一軒家が建っていたそうだ。

私はそのことをまったく覚えていなかった。

そしてそこには、かなり「おかしな」男が住んでいたそうだ。

私と弟が騒いでいると、窓を大きな音をたてながら威嚇したり、近くの川に向かって大声をあげていたり、そうかと思えば、坊主が着るような「袈裟」を身につけてどこかに出かけていくこともあったそうだ。

あげくの果てに、職場からの連絡先として、私の家の電話番号を電話帳で調べ、勝手に申告していたそうだ。

職場はとある寺だったそうなのだが、そこから我が家に電話がかかってきたことで、その事実が発覚した。

親切な母は取り次いであげたそうだが、今の時代であればあり得ないことかもしれない。

怖い話だ。

やがて男はどこかに行ってしまい、ボロい建物は取り壊され、アパートが建つこととなった。

 

驚くべきことに、これら一切のエピソードを私は覚えていなかった。

これだけエキセントリックで印象的な男のことなのにだ。

小学校に入るか入らないかくらいのことだったので、無理もないのかもしれない。

また、あまりにトラウマティックな経験ゆえに、記憶を消してしまったのかもしれない。

幼少期に住んでいた家の隣の記憶は、あの優しい青年の住むアパートから始まり、そこで完結している。

「お知らせ」

明日から年始にかけて、普段は行っていないトライアルコーチングの募集を行う。

同時に、コーチングセッションのキャンペーンも行う。

詳細は明日の夜に発行のメールマガジンの中で案内する。

興味のある方は、メルマガに登録していただければ、内容が確認できる。

 

「帰省」

新大阪に来ている。

いまから新幹線に乗り、実家のある広島へと帰る。

年末年始を広島で過ごすのは、ずいぶんと久しぶりのような気がする。

指定席を取ろうかと思ったのだが、15時の時点で、19時の便まで指定席はいっぱいになっていたのであきらめた。

自由席の混雑した中で揺られながら帰ることにした。

 

荷造りをしていて改めて感じたのは、私の仕事の大部分はどこでもできるということだ。

もちろん、コーチングセッションや、セミナー、あるいは人との打ち合わせに関しては、時空の指定があるので、その限りではない。

しかし、その他の仕事(驚くべきことに、その他の仕事のほとんどすべてに言語が関わっている)は時間や場所を選ばず行うことが可能だ。

荷物のほとんどはそのために必要なものばかりだった。

とは言っても、PC、モバイル、充電器、資料、本、ノート、筆記用具、だいたいこれくらいだ。

より望ましい環境や時間帯はあるにはあるが、本質的には、これらがあれば、どこでも仕事ができる。

この調子で、活動範囲を広げていきたいと思う。

来年は、2箇所外国に行く予定がすでにある。

地球全体が遊びのフィールドであり、仕事の実践のフィールドだ。