「気」

「気」をくばる

「気」をつける

「気」をそらす

「気」をとられる

「気」が散る

「気」をよくする

「気」を失う

 

日本語には「気」のあり方を表現する言葉がたいへん多い。

どれだけの言葉を知っているだろうか。

私は子供の頃から、こういった「気」にずいぶんと敏感な子供であったらしい。

もちろん、そのような表現で言われたことがあるわけではないが、周囲の人たちから言われたことを総合すると「気に敏感」という言い方が相応しかろうということだ。

確かに思い当たるふしはたくさんあった。

こんなに明らかに感じることを、人は感じていないようだが、どうしてだろうか。

そう思うことが非常に多かった。

 

現代文を教えるようになって、「気」に対する言葉がたくさんあることを意識するようになった。

そして、上に挙げたような「気」を表す言葉が、それぞれどんな「具合」かを積極的に感じたり、コントロールしたりするようになった。

また、自分がいま感じた体感にラベリングするとしたら、どんな言葉がふさわしいかな、などと考えたりもした。

こういうとき、言葉は便利だ。

言葉がくっついている対象は、持ち運んだり、切り離したり、入れ替えたり、消したりと、操作することが容易になるからだ。

「気」という言葉にならない(操作しづらい)対象と、言葉を紐付けておくだけで、コントロールをうまくやる糸口がみつかる。

 

ただし、言葉で表現できるものが「気」のすべてであるという勘違いをしてはいけない。

そういう勘違いは、初歩的な論理の誤謬である(実際そういう議論はよく見られるが)。

言葉で表現できる「気」はごく一部であることを分かった上で、運用上、言葉を大切にするということだ。

 

この記事が「気」がよくわからない、という人のヒントになるといいのだけど。

 

 

「気」

気やエネルギーが見えるのかと言われれば、見えるという答えになる。

私の場合は、視覚的にヴィジュアライズされて見えるというよりも、質感や抽象的な形として感じられるといったほうがいいかもしれない(視覚的に見えている感覚もあるにはある)。

また、内部表現の書き換えができるのかと聞かれると、職業なのでこれもできるという答えになる。

もっとも、多くの人がイメージしている「内部表現の書き換え」にはいささか解釈の偏りがあるようで、それは全体の一部に過ぎないと思っている。

いずれにせよ、そういった少しばかり超常めいた能力にを有しているのかという質問に対する答えはYESだが、あまり自分からそれをアピールすることはない。

理由はいろいろとあるのだが、ここでは書くまい。

また気が向いたら書くかもしれないが。