「コミュニケーション」

一対一のコミュニケーションを想定してみよう。

その際には、「私」と「あなた」がいる。

そしてさらに、「私」と「あなた」と、「私とあなたの関係」がある。

少なくとも、この三者をなんらかの方向性を持ってマネジメントする必要がある。

もちろん、コミュニケーションに一定の目的を持っていなければ、そんな必要はない。

だから、目的があるということは前提としておく。

 

さて、この三者をマネジメントするには、どのような能力が必要だろうか。

ひとつ思いつくのは、視点移動の能力だ。

通常人は、自分という視点に強く縛られている。

なぜなら、その視点から世界を眺めることにより情報を収集し、同時に自分を構築していく必要があったからだ。

しかし、その自分という視点は、情報を収集していくための便宜上の機能である、言い換えれば、単なる仮の基準点に過ぎない。

つまり、それが絶対なわけではない。

にもかかわらず、その自分という仮の視点における情報収集を積み重ねてきた結果、まるでその視点が唯一絶対のもののように感じるようになる。

まずは、その視点がたまたま要請された仮のものであることを理解し、単に採用しているだけのものであると理解することからはじまる。

 

この理解があるとどのような認識が生まれるか。

単純で、視点はいくらでもあるという認識が生まれる。

この視点の獲得は、インパクトが大変大きい。

なぜなら、無限の視点の獲得に等しいからだ。

1から ∞(infiniti)への跳躍だ。

この視点の獲得することで、「あなた」の視点への移動が可能になる。

もちろん、「私」は「あなた」の物理的身体、つまり情報収集システムの物理的平面を持たないため、完全に「あなた」の視点を獲得することは難しい。

しかしながら、「私」が唯一絶対の視点であるという認識に縛られている状態よりは、はるかに「あなた」の視点に寄り添うことができる。

 

そして「私」も「あなた」も唯一絶対の視点ではないという認識が極まって来ればこそ「私」と「あなた」の関係を眺める視点にも移動していくことができる。

さらにその視点そのものを観察する視点を作ることもできるし、それは無限に高めていける。

このような階層性を持つ視点の集合内を移動しながら、現実世界になんらかのインパクトが生じるような働きかけを行う。

もちろんそれは最初に合意したように、ある方向性を維持しながらだ。

私の考えるコミュニケーションのマネジメントの、抽象的なモデルを記述してみた。

「たこ焼き」

昨晩、コーチ仲間と、新しくご縁をいただいた先輩コーチと三人でたこ焼きを食べにいった。

たこ焼きという庶民的な食べ物にはおよそ似つかわしくない、スケールの大きな話ができた。

今回ご紹介いただいた先輩コーチも、私のまったく知らないような知識や経験をお持ちで、そういったお話を聞いているのがとても楽しかった。

また、その方がどのような思いで活動をされているのかについて伺うことも、大きな刺激をいただくことができた。

聞いていて楽しくなれる話は、本当にいいものだ。

 

村上春樹の短編小説集の冒頭に、以下のような記述がある。

 

『・・・正直に言って、僕は自分の話をするよりは他人の話を聞く方がずっと好きである。それに加えて、僕には他人の話の中に面白みを見出す才能があるのではないかという気がすることがある。・・・このような能力ーー他人の話を面白く聞ける能力ーー・・・』(回転木馬のデッドヒート9p)

 

私は昔からこの部分の描写が好きで、なんだか他人事のように思えなかった。

もちろん、セミナーをやったり、場を活発にするために意見を求められたり、相手から説明を求められたりすれば、それには問題なく答えられるようにする準備はある。

それどころか、そういったベクトルでのコミュニケーションの能力をもっともっと高めたいという野心さえ持っている。

しかしながら、本質的には、他人の話を聞くことの方が私にとっては自然なことであり、気兼ねなく楽しめることのような気がする。

そして、その反作用としてなのかどうかはわからないが、「聞く」とは真逆の「書く」という行為もまた好きである。

わがことながら、不思議なものだ。