「妖 -あやかし-」

京極夏彦に出会ったのは、日本の新本格ミステリーに耽溺していたころだった。

異様な装丁から漂う妖気は、一作目からしてすでに尋常ではなかった。

「姑獲鳥の夏」

読み終わり、こんなすごい作家がいるのか、と驚いた。

メインキャラの「京極堂」こと中禅寺秋彦は、憑き物落としと言われる作業を行いながら、キャラクターに憑いた妖を祓い、物語の謎解きをする。

なんだかコーチに似ていませんか。

わたしたちは、その人にとって望ましくないブリーフを祓うのです。

 

京極夏彦の作品は、やたらと長いことで知られる。

だから、たくさん出版されている作品の中でも、実際には5作しか読んでいない。

すべて読み尽くすほどの気合いはまだない。

「グレート・ギャツビー」

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』が好きだ。

完全に美しい物語だからだ。

美しい話であるという意味ではない。

物語が持つ、多次元的な構造として完全に美しいという意味だ。

もちろんそれは、翻訳した村上春樹の力量に依るところが大きい。

英語の原著にチャレンジしたこともある。

古風で複雑な英語表現(だそう)なので、私の英語力の範疇を大きくはみ出していると感じた。

しかし、なぜだかわからないが、それが美しい物語であるということは伝わってきた。

それは、私が「この小説は美しい物語である」と決めているからかもしれない。

「印象派」

フランス象徴主義の詩人にかぶれた時期があった。

シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボー、ステファヌ・マラルメ、ポール・ヴァレリーなどを読んだ記憶がある。

その内容のほとんどはもう忘れてしまったが、美しい文章だったことは記憶している。

もう読むことはないのかもしれないが、その時期出来上がった感覚はおそらく生涯の財産になるだろうと思う。

 

「魔法少女」

「魔法少女」は、日本のアニメーションの重要なモチーフのひとつのようだ。

少女性、自我の確立、共闘、善悪の彼岸など共通するテーマが、時代に即したそれぞれの作品の形で、繰り返し執拗なまでに描かれ続けている。

そして傍には、『神曲』のウェルギリウスのごとく、異界からやってきた小さな生命体が物語の導き手としてかならず侍る。

私のベストワン魔法少女作品は『魔法少女まどか☆マギカ』で、この先もう揺らぐことがないのではないかと思うくらいだ。

虚淵玄の脚本、蒼樹うめのキャラクターデザイン、シャフトの製作、劇団イヌカレーのデザイン・美術と奇跡のような組み合わせで成り立っている。

もちろん音楽も素晴らしい。

久々に見返そうかと思っている。

「別れの物語」

二人の男が出会い、そして別れる(出会い直す)というモチーフの話がたまらなく好きだ。

 

グレート・ギャツビー

デミアン

ロング・グッドバイ

異邦の騎士

グラン・モーヌ

羊をめぐる冒険

シャーロックホームズ・最後の事件

チェ・ゲバラがフィデル・カストロに宛てた最後の手紙

 

そういえば、以前マーク・シューベルトが話してくれた、若き日のルー・タイスとの思い出からも、同様の哀愁を感じた。

チベット密教での灌頂儀式が終わったあと、甘いおやつをその場にいる人みんなで食べた。

それは、来世にも仏の縁でその場にいる人すべてと会うことができるという意味なのだそうだ。

来世、があるかどうかは知らないが、この時もまた、同じ哀愁を感じた。