「発・菩提心」

ダライ・ラマ法王猊下が日本に来られた際、会いに行ける場があるのなら、なるべく参加できるようにしている。

理由は単純で、私は猊下のことが大好きだからだ。

 

今年の5月に、文殊菩薩の許可灌頂をいただいた。

それに先立つ講話では、シャーンティデーヴァの書いた『入菩薩行論』というテクストを解説するものだった。

このテクストは、先月のチッタマニターラの灌頂においても解説をされたので、猊下にとって非常に重要性の高いものであるようだ。

 

その中で解かれる教えはいろいろとあるが、最も重要なもののひとつは「発菩提心(ほつぼだいしん)(発心)」だ。

菩提心とは、「衆生(しゅじょう)を悟りへと誘う心」のことだ。

そしてそれが「発(ほっ)」するのだから、発菩提心とは、「衆生を悟りへと誘う心が生まれること」だ。

もちろん、発菩提心の時点で、そうなっているはずではない。

ということは、その時点では、あくまでそうなるという宣言なわけだ。

言い換えれば、ゴール設定だ。

しかも注意してほしいのは、このときの衆生とは、人間だけではなく、生きとし生けるものすべてが含まれた概念である点だ。

とてつもなく大きな、まさに現状を大きく超えたゴール設定だと言える。

 

だからチベット仏教とコーチングがまったく同じものだと言いたいわけではない。

明らかに違う点だってたくさんある。

しかし、根底で通づるところがあるのも確かだ。

軽音楽で例えるなら、アレンジはまったく違うし、歌っている人もまったく違うのだが、根音はまったく同じで、コード進行は酷似している、といった感じだろうか。

 

まあ、難しいことはわからずとも、機会があれば猊下に会いにいかれることをおすすめする。

あれほど高潔で、あれほどチャーミングな人もそういないのではないだろうか。

「ダライ・ラマ法王猊下に会った話」

少し前のことになるが、ダライ・ラマ法王猊下が大阪に来られた。

大阪清風学園ではチッタマニターラ尊灌頂を授かり、高野山にて不動明王の許可灌頂を授かった。

高野山はともかくとして、大阪清風学園は徒歩圏内だ。

今年の5月には、入菩薩行論に関する講話の際、文殊菩薩の許可灌頂を授かった。

これも大阪で、当時住んでいた家から歩いていける距離だった。

 

このように書くとダライ・ラマ法王猊下が頻繁に大阪に来られているように聞こえるが、もちろんそんなことはない。

毎年来られていたわけではないし、大阪ばかりでもない。

とある人との出会いがあり、私が本格的にチベット仏教を学んでみたいと思った矢先、頻繁に来られるようになった。

そして、チベット仏教を通して、多くの出会いがあった。

こういうのを仏縁というのだろう。

来世があるのかどうかは知らないが、来世生まれ変わっても仏縁のもとにもう一度会えるという方便がチベット仏教には存在する。

死の恐怖を上手にコントロールし、生を全うできるのなら、こういう方便も使いようなのだと思う。

「ない仕事の作り方」

みうらじゅん「ない仕事の作り方」を読んだ。

くだけた文体と、具体例としてあげられる対象や、手法のネーミングのユニークさが印象的だ。

しかし、実際には仕事に対する王道とも言える考え方が学べる本だった。

文字通り「ない仕事」をどのように作っていくかについて語られている。

そのために著者は、対象を徹底的に好きになる「自分洗脳」、世の中に目新しい対象を広げるための手段としての「一人電通方式」などの手法を生み出し実践してきた。

その過程で、ない仕事を作ることは「私」を消す作業であると気づく。

「私」ではなく、「対象」がどのように世の中に受け入れられ、楽しんでもらえるかを考え続けることだという。

これはまさに、仏教修行(特に大乗仏教)そのものだ。

ただ面白がって読むだけではもったいない本だと感じた。

「不安定」

昨日、今日と、すわりの悪い感覚の中過ごしている。

決して気分が落ち込んでいるわけではないし、やるべきタスクは積み重ねている。

というよりもむしろ、タスクに取り込む質や量はかなり向上しているように思える。

にもかかわらず、腹が据わったどっしりとした気分がなかなかつくれない。

なぜかと考えてみると、ここ半月ばかりの過ごし方が関係していることがわかった。

ダライ・ラマの4日間にわたる講話、灌頂にはじまり、東京でのセミナー、セッション、養成講座のサポート、CCCPの受講、大阪での養成講座サポート、ミーティング、そしてその間にある様々な予定と、この半月はかなりの密度で過ごしていた。

普段から日課のようになっている情報発信は間に行っているし、このブログを始めるなど、新たな試みにも多く取り組んだ。

そういえば、松本人志にも会った。

それら一連の結果、私のゲシュタルトは大きく揺らぎ、粉砕されたのだろう。

 

とりわけ最後の数日間のインパクトは強烈だった。

その名残として、まだゲシュタルトが不安定な状態なのだろう。

私には大きなゴールがたくさんあるので、ゲシュタルトは自分を大きくゴールの側へと進ませるような形で統合されるはずだ。

そのためには、もう少しだけ時間がかかるのかもしれない。

 

「別れの物語」

二人の男が出会い、そして別れる(出会い直す)というモチーフの話がたまらなく好きだ。

 

グレート・ギャツビー

デミアン

ロング・グッドバイ

異邦の騎士

グラン・モーヌ

羊をめぐる冒険

シャーロックホームズ・最後の事件

チェ・ゲバラがフィデル・カストロに宛てた最後の手紙

 

そういえば、以前マーク・シューベルトが話してくれた、若き日のルー・タイスとの思い出からも、同様の哀愁を感じた。

チベット密教での灌頂儀式が終わったあと、甘いおやつをその場にいる人みんなで食べた。

それは、来世にも仏の縁でその場にいる人すべてと会うことができるという意味なのだそうだ。

来世、があるかどうかは知らないが、この時もまた、同じ哀愁を感じた。