「前に言ったことがある」

「過去の自分の気づきを今になって主張する人」に出会うことがある。

 

「昔からそう思っていた」

「だから言ったじゃん」

「そんなことはもうすでに気がついていた」

「◯◯年前に同じことを思いついていた」

「以前から予想済みだ」

 

こういう主張はどんなふうに現れるか。

誰かが主張したことが広く受け入れられる状況が出てきたとする。

それに対して「素晴らしい気づきですね」という反応をする人もいるのだが、一方で「そんなこと自分は何年も前からわかっていた」という反応をする人がいる。

こういう形で現れる。

こういう後出しジャンケンみたいなスタンスは、あまり良い傾向とは思えない。

理由はふたつある。

ひとつは、なぜ過去に気づいていたのなら、それが現実に影響を与える様な形で伝えていかないのかだ。

ただの思いつきで終わらせるのではなく、伝える、実際に行動することをなぜしなかったのだろうか。

少なくとも、いま主張を広く受け入れられる人は、自分の気がついたことをただの思いつきで終わらせないための作業を行ったわけだ。

自分の気づきを、広く多くの人に受け入れてもらうために、工夫と対話を重ねたはずだ。

脳内で生じた気づきを、物理的な現実世界にまで落としてはじめてインパクトが生じる。

そのことがよくわかっているから、そういった作業を厭わず、じっくりと形にした結果、広く受け入れられる形の主張が生まれる。

それを見て「そんなことは自分はすでに気づいていた」というのは、やはり違うのではないだろうか。

ルー・タイスは、自らの基本三原則のひとつとして、effevtive(有効な)というものをあげていた。

これにはいくつか解釈があるのだが、コーチングの文脈における「有効な」とはどういうことだろうか。

ゴールを妄想するに終わらせるのではなく、現実に自分の人生を変えるということだ。

「そんなこと自分はすでに気づいていた」という人は、このeffective に対する重要性があまり高くないのかもしれない。

 

さて、もうひとつの理由は単純だ。

その「気づいていた」は、いま広く受け入れられていることと同じであるという保証がないということだ。

もっと言えば、本当に気づいていたのかどうかも検証できない。

論文や記録でも残っていれば別だが、そういうことでもないだろう。

つまり、単なる水掛け論になるだけであり、その「気づいていた」という主張自体が不毛であるということだ。

ここでもやはり effective ではないという結論が出てきた。

 

念のため言っておくが、実際に「そんなことは昔から気づいていた」という主張をしつつも、それが書籍や映像、論文などに残っていて、さらに、その気づきを広めるための現実的な行動をしっかりとやっている人はいる。

そういう人は、あえて「そんなことは昔から気づいていた」ということを美学、エンターテインメント、アジテートとしてあえて言っているはずなので、特に問題ないと考える。

「批判」

批判が批判として有効に機能するには、いくつか条件があると思われる。

 

一つ目は、徹底して論理的に導き出された主張による批判だということ。

二つ目は、その批判を解決するための対案を持つこと。

三つ目は、その対案に基づき、批判者がなんらかの現実的な行動を起こしていること。

 

批判のあるべき姿は、以上三つを満たしたものであるというのが現時点での私の見解だ。

もしこれらが満たされていなかったとしたら、それは批判ではなく、単なる愚痴、暴論、当てこすり、空理空論などになってしまう。

いかに頭が回る人であっても、これらを常に満たすような形で批判を展開している人は少ないように思われる。

 

そういう批判(のようなもの)に出くわした時には、上記の三つが満たされているのかをチェックしてみるといいのではないだろうか。

冷静にそういう観察をしていると、批判者が置かれている立場、批判者の中にある情動記憶(emotional memory)、批判者の持つ信念(belief)などが推察されてくる。

そして、なぜその人がそのような批判足り得ない発言をするに至ったのか、といったことまでもがなんとなく見えるようになる。

だからといって、そういった部分を追求し相手をやり込める必要はない(もちろんそうしたほうがいい場合には遠慮なくすればいいが)。

ここで言いたいのは、そのような批判者自身がスコトーマ(scotoma)になっている認識を踏まえ、どのように認識してもらうかを想定した議論に持っていくのが、私たちが取るべき立場ではなかろうかということだ。

これはなかなか難しく、技術のいる話である。

また、これは、パーソナルコーチングにも深いところでつながってくる話であると考えている。

とにかく、本記事では批判というものに対するスケッチ程度の分析なので、これ以上深入りはしない。

最後にルー・タイスの言葉を紹介しておこう。

 

Don’t change Them, Change You.

(人々を変えるのではなく、自分を変えましょう)

「論理の罠」

一般に、論理的であることはよいことであるとされる。

しかし、デメリットはないのだろうか。

私は最近、論理的であるがゆえのデメリットをよく実感する。

それは、論理が思考の可能性を制限するということだ。

論理的であるということは、思考に対してある一定の筋道を与えるということだ。

その筋道がある程度妥当なものであるとすれば、その結論は真に近いと考える。

しかし、筋道を与えていくということは、筋道から排除されるものがあるということを意味する。

それにより、当然のことながら、見えないものが生まれる。

 

では、論理的でないほうがいいのだろうか。

論理的の反対は、感覚的であると言うが、感覚的であるほうがいいのだろうか。

それはそれで短絡であろう。

なぜなら、論理を否定する形での感覚は、単なる無秩序状態であり、いわばなんでもありの状態だ。

そんな状態でよい議論ができるはずがない。

 

そうなると、論理的であることを前提として、論理的であるあり方そのものを俯瞰し、その論理の筋道から排除されたものを同時に観察する態度を維持することがよさそうだ。

論理的な筋道を、ひとつ上の抽象度から眺める視点を持つ、と言い換えることもできるだろう。

そして、その「ひとつ上」には「さらに上」があり、それは事実上無限に続く。

そのような階層を想定しながら、一望俯瞰的に認識し、適宜もっとも良い階層を選択することが望ましい。

「具体性」

最近は、具体的なことに強い興味を持っている。

これは人生初のことかもしれない。

もちろん、以前も具体的な知識や体験というものをそれなりに大切にしていたつもりだ。

しかし、あくまで関心の中心は、知識を動かす論理であり、体験を抽象化したプリンシプルであった。

より汎用性の高い論理やプリンシプルを体得することに注力を注いだ。

論理やプリンシプルをある程度運用することができるようになった今、さらに次のステップ、つまりその運用によってもっと世の中に対して好影響を与えていくためには、当の世の中のことをもっと知らなくてはならないと感じている。

論理やプリンシプルだけでも、世の中の事象に対してそれらしい結論や解決策を示すことができるのかもしれない。

しかしそれは、現実をあまり知らない上で述べられた、いささか空理空論めいたものになる。

それならばまだいいが、理屈が先行した的外れなことだって言いかねない。

私がほしいのは、「それらしい結論や解決策」ではなく、「しっかりとした結論と実際の解決」なのだ。

そのためには、具体的な知識をたくさん得る必要がある。

それこそ大量に、ものすごく大量に得る必要がある。

そうして、論理やプリンシプルに、血を通わせ、肉を持たせるべきだと考えている。

 

そんなことを考えながら本や新聞、雑誌を読んでいると、まだまだ知らないことが多いと反省させられる。

もっと勉強せねばと素直に思う。

「批評家と小説家」

村上春樹が「悪い批評とは馬糞がたっぷりと詰まった馬小屋のようなものである」と言っていた。

さっさとその場を立ち去るべきであり、なぜこんなに臭いのかなどとは考えてはいけないのだそうだ。

 

批評というか、人の意見をどういう風に受け止めるかは難しい問題だ。

意見と人格をしっかりと切り離しておかなければ悶着のもとだろう。

本来ならば「何が言われているか」でのみの判断が望ましいのだろうが、どうしても「誰が言ったのか」も重要になってくる。

単なる批評家が言ったのかと、小説家でもある人が批評をしたのかによって、受け取る方は違った印象を持つということだ。

ただ安全な守られた場所にいる人が訳知り顔の人が、言ったことなのか。

あるいは、自分自身も同じような批評にさらされるリスクを踏まえた上で言ったことなのか。

この違いはどうしても受け取り手の印象を大きく左右する。

 

自分はどうかといえば、批評家であるよりもまず先に、小説家でありたいと常に思っている。

そして批評家であっても、相手の可能性を最大限引き出すという結果を伴わないものを批評と正当化することだけはすまいと決めている。

そもそもがプラグマティストである私は、ルー・タイスの基本三原則である「be effective」の精神にとても深く共感しているのだ。