私が最も嫌いな発言のひとつに「だから言ったじゃん」というものがある。
他人から言われるのも好きではないし、自分は絶対に言わないように気をつけている。
Aに対して「こうするべきだ」とBが言った。
そのときAは、うまくそれを受け入れることができなかった。
時間が経ち、Aはそのことが腑に落ち、受け入れたとする(あるいは、相変わらず受け入れられないままで、それが何かの失敗につながってしまうようなこともある)。
その場合には、かつてBに言われたことすら忘れているかもしれない。
そんなAを見て、Bは「だから言ったじゃん」「前から私はそう主張している」「ほら言った通りになったじゃないか」と言う。
こういうケースだ。
なぜ嫌いなのかを分析してみると、生産性がないからだ。
唯一あるとしたら、発言者の我が満たされるということだけだろう。
本来、言った通りのことを受け入れたとしたら、Aの成長でありそれは喜ぶべきことだ。
また、言った通りのことが受け入れられなくて失敗につながったとしても、それをきっかけによりよいAになるチャンスと捉えることもできる。
そのいずれの方向へも行かないのが、Bの「ほら言ったじゃん」なのだ。
示されるのは、Aに対するBの正当性、優位性のみであり、Aは洞察の鈍い自らを恥じ、自己評価を下げる方向へと進むしかない。
書いていて、この発言の気に入らなさは、本音と建前の乖離にあるのかもしれないと気が付いた。
Bが「こうすればいい」と言うのは、通常「相手のために」というスタンスを取る。
この時点では、「こんなことを理解している自分はすごいのだと示したいから言う」というスタンスはとらないだろう。
もし「相手のために」というスタンスが真ならば、時間がかかってもAが築いてくれれば喜ぶべきことだ。
しかし、実際には「ほら言ったじゃん」と言う。
これは「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだろう。
また、「相手のために」というスタンスが真ならば、Aがなかなか受け入れられず失敗をしたときこそ、上手に「こうすればいい」を伝えるチャンスなはずだ。
にもかかわらず、「ほらいう通りにしないからだ」と言う。
ということは、やはり「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだ。
このように、建前としては「相手のために」を取りながらも、局面が変化すれば「自分の正当性、優位性を主張する」本音が出るという構造がある。
このことに対して憤りを感じるのかもしれない。
自分がそのようにならないよう気をつけている。
そのためには、わざわざ人に自分の正当性、優位性を主張する必要がない状態になっていればよい。
すなわち、自分で自分の圧倒的価値を認められるようになっておけばよいということだ。