「つけ麺」

少し時間が空き、お腹が空いたので外食をしようと思った。

付近に「つけ麺」を出す店があったので、入ってみた。

よく考えてみると、このような「つけ麺」を食べるのは実に久しぶりだった。

最近では、味覚が変わってきたこともあり、このような「強い」味のものはあまり食べなくなってしまったのだ。

麺は少なめで注文して、10分くらい待つと、「つけ麺」がやってきた。

食べてみると、美味しくも不味くもなかった。

いや、この表現はあまり的確ではないかもしれない。

美味しいのは美味しいと感じている。

しかし、美味しいとか不味いとかを感じる世界とはちがったところから、行為そのものを俯瞰している自分の感覚がより強かった。

それは美味しいとか不味いとかではなく、ただ食べているという感じ方だった。

食べた「つけ麺」の味自体での感動はさほどなかったが、そのような自分の感覚の変化(進化?)に対する感慨は深いものだった。

この感覚の変化は、自分のゴールにとってはよいものだと考えている。

 

「野菜、その後」

少し前に、実家から大量の野菜が送られてきた話を書いた。

やっと終わりが見えてきた感じだ。

たまねぎ一つ、ジャガイモ二つ、サツマイモ三つと、白菜が四分の一くらい残っている。

あとは、柚子のはちみつ漬けも三分の一くらいか。

野菜の値段は結構バカにならないのでありがたいのだが、とにかく量が多くて、大変だった。

仕事が忙しく、なかなか人に会うタイミングがなかったので、あげるという選択もできなかった。

とりあえず、今日は白菜と決着をつけようと思っている。

 

「ゆず茶の謎」

少し前に、実家からゆず茶が届いた。

ゆずを刻んでハチミツに漬けたものが、ガラスの瓶にたっぷりと入れられていた。

二日に一回くらいのペースで飲んでいる。

ある朝、ゆず茶を飲もうと思って瓶を持ち上げると、瓶の底が張り付いていたようで、「べリッ」という剥がれる感触があった。

おそらく、前回飲んだ時に、瓶の淵からこぼれたものがつたわって底へと流れ、凝固したのだろう。

そう思い、念入りに瓶底を磨き、次は絶対にこぼれないように注意してゆず茶を作った。

 

数日後、瓶を持ち上げると、再び「ベリッ」という感触があった。

もうこれを三回くらい繰り返している。

毎回こぼれないように警戒する度合いは高まっているのに、何回やっても同じ結果になる。

何かスコトーマがあるのだろうか。

「パンとニンニクたっぷりちゃんぽん麺」

自宅の窓を開けると見えるくらいの距離に、天然酵母使用を売りにしているパン屋がある。

近づくとパンのいい匂いがしてくる。

 

ところが、その15メートルほど手前には、「ニンニクたっぷりちゃんぽん麺」の店がある。

そこを通過するときは、もちろん、にんにくの匂いがする。

これはこれでいい匂いではあるのだが、少々主張が強いと感じることが多い。

 

ニンニクからパンの匂いへと、ちょうど切り替わるあたりがあり、それは日によって、時間によって変わる。

その瞬間を探りつつ、二つの店を通過するのが密かな楽しみになっている。

こういう「場」の切り替わりへの鋭敏さは、コーチングの能力アップにも貢献するのではないだろうか。

「あ、この人はいま現状からゴール側へコンフォートゾーンが切り替わりった」

こんなものの見方ができるようになるかもしれない。

「餃子の王将」

久しぶりに「餃子の王将」に行った。

天津飯と餃子を頼んだ。

餃子と銘打っているからには、餃子を頼まなくてはならないような気分になってくる。

私はこの餃子を心からの want to で注文したのだろうか。

そんなことを真面目に考えたりする。

餃子は美味しかった。

「野菜」

実家の両親から、大量の野菜が送られてきた。

大根、サニーレタス、キャベツ、白菜、じゃがいも、玉ねぎ、サツマイモ、長ネギ、水菜、ホウレンソウ、ゆず。

とりわけ白菜は馬鹿でかく、全長が30センチ近くあった。

消費するのに時間がかかりそうだ。

楽でたくさん食べられるので、鍋料理をしょうと思う。

「毛布」

先月引越しをしたので、それに伴い、部屋の様々なものを買い換えていっている。

寝具もそうで、前に使っていた布団は処分し、新しいものを揃えた。

引っ越してすぐに、無印良品で、敷布団の上かにもう一枚敷くための薄手の敷布団を買った。

手触りが大変よく、色はシックなダークネイビーだ。

毛布も同種のものが発売されるようだったが、敷布団を購入した時点ではまだだった。

この文章を書いている前日、発売した毛布を購入することができた。

そして本日が、上下から手触りのよい布団に挟まれて目覚めた、最初の朝となった。