昔、空手と合気道をやっていたことがある。
いずれも短い時間でやめてしまった。
後年になって、なぜそのとき続けられなかったかがわかるようになった。
私は、より合理的な、より理想的な身体の運用技術があることを直感していた。
そして、私が参加した道場では、そのことが上手に表現されていると思えなかったのだ。
もちろんこれは、上記の武術すべてにおいて、望ましい身体の運用技術が提供されていないという意味ではない。
少なくとも、私が参加した道場ではそうだと感じたという話だ。
そういえば、モデルをやっていた際にも、同様の経験があったた。
モデルの専門技術としてウォーキングがある。
そして、歩く技術を教えるスタジオがあり、専門家がいる。
何度かそういう専門家と関わったり、ウォーキングを習うことを推薦された経験がある。
しかし、どうしてもその人たちからウォーキングを習うことに対し、食指が動かなかった。
今思えば、武術の件と同様に、その人たちと関わっても身体の本質的な正しい運用方法が学べると思えなかったのだろう。
いまこのような振り返りができるのは、身体の正しい運用技術の体系に出会い、学ぶことができているからだ。
さまざまな「これは違う、これも違う」という体験があったからこそ、出会うことができたのかもしれない。