批判が批判として有効に機能するには、いくつか条件があると思われる。
一つ目は、徹底して論理的に導き出された主張による批判だということ。
二つ目は、その批判を解決するための対案を持つこと。
三つ目は、その対案に基づき、批判者がなんらかの現実的な行動を起こしていること。
批判のあるべき姿は、以上三つを満たしたものであるというのが現時点での私の見解だ。
もしこれらが満たされていなかったとしたら、それは批判ではなく、単なる愚痴、暴論、当てこすり、空理空論などになってしまう。
いかに頭が回る人であっても、これらを常に満たすような形で批判を展開している人は少ないように思われる。
そういう批判(のようなもの)に出くわした時には、上記の三つが満たされているのかをチェックしてみるといいのではないだろうか。
冷静にそういう観察をしていると、批判者が置かれている立場、批判者の中にある情動記憶(emotional memory)、批判者の持つ信念(belief)などが推察されてくる。
そして、なぜその人がそのような批判足り得ない発言をするに至ったのか、といったことまでもがなんとなく見えるようになる。
だからといって、そういった部分を追求し相手をやり込める必要はない(もちろんそうしたほうがいい場合には遠慮なくすればいいが)。
ここで言いたいのは、そのような批判者自身がスコトーマ(scotoma)になっている認識を踏まえ、どのように認識してもらうかを想定した議論に持っていくのが、私たちが取るべき立場ではなかろうかということだ。
これはなかなか難しく、技術のいる話である。
また、これは、パーソナルコーチングにも深いところでつながってくる話であると考えている。
とにかく、本記事では批判というものに対するスケッチ程度の分析なので、これ以上深入りはしない。
最後にルー・タイスの言葉を紹介しておこう。
Don’t change Them, Change You.
(人々を変えるのではなく、自分を変えましょう)