「せ・ゆ・ぶ・け」

ずいぶんと昔のことになるが、ドラゴンクエストが好きで、よくやっていた。

ドラゴンクエスト3では、キャラに職業があり、主人公(勇者)が好みの職業のキャラを抜擢し、パーティーを組む。

私は最終的に、「戦士、勇者、武闘家、賢者(せ・ゆ・ぶ・け)」という編成をとっていた。

 

ロールプレイングゲームが好きで、他のジャンルはほとんどやらなかった。

1つの目的のために、仲間を集め、育て、アイテムを揃え、行動する。

それが楽しかった。

 

いまとなっては、ゲームはまったくやらないが、その感覚は常に自分の中にある気がする。

「剣と魔法」を「知識と技術」に持ち替え、仲間を集めてゴールに向かって進むのだ。

 

「ゆず茶の謎」

少し前に、実家からゆず茶が届いた。

ゆずを刻んでハチミツに漬けたものが、ガラスの瓶にたっぷりと入れられていた。

二日に一回くらいのペースで飲んでいる。

ある朝、ゆず茶を飲もうと思って瓶を持ち上げると、瓶の底が張り付いていたようで、「べリッ」という剥がれる感触があった。

おそらく、前回飲んだ時に、瓶の淵からこぼれたものがつたわって底へと流れ、凝固したのだろう。

そう思い、念入りに瓶底を磨き、次は絶対にこぼれないように注意してゆず茶を作った。

 

数日後、瓶を持ち上げると、再び「ベリッ」という感触があった。

もうこれを三回くらい繰り返している。

毎回こぼれないように警戒する度合いは高まっているのに、何回やっても同じ結果になる。

何かスコトーマがあるのだろうか。

「父親」

先日、父親が63歳になった。

 

自分が63歳になったとき、どのようになっているかは想像もつかない。

しかし、いまよりももっと重要な人間になっていることは確信している。

これから63歳までの間には、たくさんの勉強と経験を積むはずだ。

その中での自分の変化・成長のことを考えると、本当に楽しみだ。

 

父親はすでに仕事はリタイアしていて、新しく自分の好きなことを始めている。

今年は、山奥にある自由になる家の台所の床をすべてはがし、張り替える作業をしていた。

すべて一人で行ったそうだ。

want to ってすごいエネルギーを生むのだなと改めて思う。

「グレート・ギャツビー」

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』が好きだ。

完全に美しい物語だからだ。

美しい話であるという意味ではない。

物語が持つ、多次元的な構造として完全に美しいという意味だ。

もちろんそれは、翻訳した村上春樹の力量に依るところが大きい。

英語の原著にチャレンジしたこともある。

古風で複雑な英語表現(だそう)なので、私の英語力の範疇を大きくはみ出していると感じた。

しかし、なぜだかわからないが、それが美しい物語であるということは伝わってきた。

それは、私が「この小説は美しい物語である」と決めているからかもしれない。

「デタッチメント→コミットメント」

ここ最近の大きなテーマとして、「デタッチメントからコミットメントへのシフト」というものを掲げている。

人と積極的に関わることを前提に、どうよりよい関係を築くことができるかにフォーカスしている。

そのせいか、自分自身がまた一段と変化してきたように感じる。

関係があり、存在が生まれる。

人と私の関係が変化し、私という存在が生まれる。

そう考えれば、コミットメントへとシフトチェンジした自分が変化するのは当然と言える。

 

そんなとき、何かを一緒にやってみたいと思える人間がそばにいるということはとても幸せなことだ。

それが自分のコミットメントを待っていてくれた人であればなおさら。

「野菜の作る全体」

少し前のことになるが、実家から宅配便が届いた。

荷物としてはいびつなほどに横長のダンボールの中には、ぎっしりと食材が詰まっていた。

白菜、キャベツ、小松菜、長ネギ、ほうれん草、大根、じゃがいも、さつまいも、たまねぎ、ゆず、えごま油などなど。

なぜかそれらにまぎれて、黒光りする「ブラックサンダー」のお徳用パックが一袋入っていた。

「ブラックサンダー」はいいとしても、この大量の食材をどうしたものかとしばらく考えた。

考えたところで結論は目に見えている。

料理をして、食べるだけだ。

それも何日もかけて。

それから数日が経ち、いろいろな料理を作った。

今日はベーコンとクリームシチューのもとを買ってきたので、白菜と玉ねぎを一緒に煮てみようと思っている。

コーチングの概念にゲシュタルト(gestalt)というものがある。

「部分と全体が双方向的に関わり合いながら織りなすひとまとまり」のことだ。

コーチングの文脈の中では、「クライアントのゴールの世界をクライアントのひとまとまりの認識世界(=ゲシュタルト)として作り上げる」といった形で使われる。

ゲシュタルトという概念は、何もコーチングの中においてのみ有用なわけではない。

たとえば、さきほど話題に挙げた料理。

ひとつの料理も、ひとつのゲシュタルトと考えることができる。

クリームシチューというゲシュタルトの中には、白菜があり、ベーコンがあり、玉ねぎがある。

調味料や水が入っている。

クリームシチューという料理の成立過程まで含めれば、食材を切る、湯を沸かす、調味料を入れる、煮るなど各タスクも入っている。

白い色、柔らかい質感、とろけるような匂い、あたたかい口当たりといった「情報」も入っているとも考えられる。

全部あわせてひとつのゲシュタルトだし、マトリョーシカのようにゲシュタルトの中にゲシュタルトが入っている。

そう考えると、私たちはゲシュタルトに取り囲まれ、ゲシュタルトの中に生きていることがわかる。

実は、私たち自身の存在そのものもゲシュタルトだ。

「憧れの人」

先日、大阪駅の近く、丸福コーヒーで食事をとっていた。

私が注文したのはビーフシチューとコーヒーだった。

何気なく辺りを見回しすと、少し離れた席に体格のいい金髪の男性が座っていた。

松本人志だった。

私は20年来の松本人志ファンで、彼の数々の作品とともに成長してきたと言っても過言ではない。

『ごっつええ感じ』、『ガキの使いやあらへんで』、『ヴィジュアルバム』、『一人ごっつ』、『働くおっさ人形』、「モーニングビッグ対談』など、あげていけばきりがない。

とりわけ、放送作家の高須光聖とやっていたラジオ番組『放送室』は、何もすることがなく、とても暇だったころに繰り返し何度も聞いた。

あの松本人志が声をかければ振り向くくらいの距離にいる、そう思うと私の心臓の鼓動は早まった。

もう少し正確に言えば、松本人志かもしれないと思った瞬間にはもう鼓動は通常の速さではなかった。

いずれにせよ、これはおかしなことだなと感じた。

なぜなら、言い方は悪いが、向こうに座っているのは単なる「おかしな髪の色をした筋肉質の中年男性」に過ぎないわけだ。

その人がいくら笑いの天才であろうと、目の前にいるだけではわからない。

にもかかわらず、私の心臓はどきどきとしていているのだ。

なぜだろうか。

私たちの多くは、いつの間にか外側から「これが重要である」という価値観を刷り込まれている。

この価値観のことをブリーフ(belief)という。

そしてそのブリーフに基づき、思考し、行動をする。

ブリーフによって心臓の速さまで変えてしまう。

私は松本人志が重要であるというブリーフを、どこまで自らの意思で決めたのだろうか。

いままで一度もそんなこと考えたことはなかったな、そう思いながら帰宅し、動画を見てみた。

相変わらず普通ではない笑いを追求している画面の中の松本人志は、相変わらず最高に面白かった。

やはり自分にとって彼は重要な存在である、そう決めることにした。

これを読んでいる皆さんにとって無条件に重要なものは、自分で決めるというプロセスを経たものだろうか。

「疲れ」

たまに「そんなにたくさんのことをやって疲れないのですか?」と聞かれる。

疲れます。

特に、脳が疲れたと感じることは多々ある。

毎日夜寝る前になると、「1日極限まで脳を使い、たくさんのことをやって疲れたな」という実感がある。

もちろん、同時に「自分はすごいが、もっとできるはずだ」とも思う。

だから、疲れることはあります。

疲れたら、適切に休むだ。

 

疲れるということと、have to なことをやっているときの嫌な感じは本質的に違う。

だから、want to でやりたいことだけをやっているが、一方でやりすぎたら疲れる、そして疲れたら休むという拍子抜けするような真実だ。

「餃子の王将」

久しぶりに「餃子の王将」に行った。

天津飯と餃子を頼んだ。

餃子と銘打っているからには、餃子を頼まなくてはならないような気分になってくる。

私はこの餃子を心からの want to で注文したのだろうか。

そんなことを真面目に考えたりする。

餃子は美味しかった。

「同調圧力」

同調圧力が嫌いである。

いつの間にか出来上がっていることが多いが、組織(コーポレート)があれば同調圧力が生じる。

この場合の組織とは、会社組織に限らない。

あらゆる集団という意味だ。

 

なぜ同調圧力が嫌いかといえば、それは卑怯だからだ。

卑怯の定義はいろいろとあるが、一貫性がないということがひとつある。

言語で明言されているルールであれば、それは同調圧力でもなんでもない。

しかし、明言されていないものの確かにあるルール(のようなもの)によって、暗黙のうちにそれを守ることを迫るということがある。

暗黙のものに対して一貫性は持たせようがない。

なぜならそれは、状況にあわせて都合よく変化させうるからだ。

これをうまく利用して自分の利益のみを最大化する人は、間違いなく卑怯な人だろう。

 

私たちコーチは、役割上、非言語情報の扱いに長けている必要がある。

それはクライアントのマインドの変化を促すために必要なものだ。

同時に、同調圧力をはじめとする、非言語に関する世の中のネガティブな側面に対しても、しっかりと観察し、良い状況を生み出すよう働きかけていきたいものだと思う。

そのためには、言語運用に長ける必要がある。

言語こそが非言語の曖昧さ、不透明さを是正する(苦肉の)手段だからだ。

 

やはり、非言語は言語とセットになって学んでいくべきものだと思う。