「書くことが楽である」

このブログの文章を書くのは、すごく楽だ。

1日こればかりやっていれば、ものすごい量の記事が書けると思う。

なんでだろう、と考えてみた。

物事を考えるとき、何かの比較対象があるとよい。

その差異から、本質が見えてくるからだ。

私のブログに『REen』というものがある。

これは、コーチングの理論を用いて、世の中の問題に対する解を示すというはっきりとした目的がある。

また、読者に問題を解決するヒントとして活用してもらう以外にも、読者がコーチングを理解していくための読み物という機能も持たせている。

だから、コーチングをまったく知らない人が読んでも、ひっかかるところがないように書いている。

もちろん、読むのには論理的思考を要求するので、その点でついていけないという人はいるかもしれない。

しかし、用語がわからなくて理解不能であるという状態にはならないはずだ。

そのため、用語の定義や運用にはかなり気を配って書いている。

だから書くのに非常に時間がかかるのだ。

それに対して、このブログでは、いま言ったようなことをほとんど意識していない。

なぜなら、一つの記事で何かを伝える作業を完結するというパッケージではなく、ブログのたくさんの記事全体をなんとなく読むことで、大きなゲシュタルトが出来上がることを期待しているからだ。

だから、あまり厳密にひとつひとつの記事を書く必要がない。

いろんな記事を気の赴くままに読んでもらえると嬉しい。

「だから言ったじゃん」

私が最も嫌いな発言のひとつに「だから言ったじゃん」というものがある。

他人から言われるのも好きではないし、自分は絶対に言わないように気をつけている。

 

Aに対して「こうするべきだ」とBが言った。

そのときAは、うまくそれを受け入れることができなかった。

時間が経ち、Aはそのことが腑に落ち、受け入れたとする(あるいは、相変わらず受け入れられないままで、それが何かの失敗につながってしまうようなこともある)。

その場合には、かつてBに言われたことすら忘れているかもしれない。

そんなAを見て、Bは「だから言ったじゃん」「前から私はそう主張している」「ほら言った通りになったじゃないか」と言う。

こういうケースだ。

 

なぜ嫌いなのかを分析してみると、生産性がないからだ。

唯一あるとしたら、発言者の我が満たされるということだけだろう。

本来、言った通りのことを受け入れたとしたら、Aの成長でありそれは喜ぶべきことだ。

また、言った通りのことが受け入れられなくて失敗につながったとしても、それをきっかけによりよいAになるチャンスと捉えることもできる。

そのいずれの方向へも行かないのが、Bの「ほら言ったじゃん」なのだ。

示されるのは、Aに対するBの正当性、優位性のみであり、Aは洞察の鈍い自らを恥じ、自己評価を下げる方向へと進むしかない。

 

書いていて、この発言の気に入らなさは、本音と建前の乖離にあるのかもしれないと気が付いた。

Bが「こうすればいい」と言うのは、通常「相手のために」というスタンスを取る。

この時点では、「こんなことを理解している自分はすごいのだと示したいから言う」というスタンスはとらないだろう。

もし「相手のために」というスタンスが真ならば、時間がかかってもAが築いてくれれば喜ぶべきことだ。

しかし、実際には「ほら言ったじゃん」と言う。

これは「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだろう。

また、「相手のために」というスタンスが真ならば、Aがなかなか受け入れられず失敗をしたときこそ、上手に「こうすればいい」を伝えるチャンスなはずだ。

にもかかわらず、「ほらいう通りにしないからだ」と言う。

ということは、やはり「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだ。

このように、建前としては「相手のために」を取りながらも、局面が変化すれば「自分の正当性、優位性を主張する」本音が出るという構造がある。

このことに対して憤りを感じるのかもしれない。

 

自分がそのようにならないよう気をつけている。

そのためには、わざわざ人に自分の正当性、優位性を主張する必要がない状態になっていればよい。

すなわち、自分で自分の圧倒的価値を認められるようになっておけばよいということだ。

「a long sleep」

今日はとても長い時間眠った。

 

火曜、水曜と、それまでの激動のスケジュールの影響で、うまく頭が働かない状態だった。

ようやく木曜(本日)になって、少し回復したかな、という兆しを感じる。

かなり濃い予定が2〜3週間続くと、このような状態になるというデータがとれた。

以前はもう少し、短い時間で生じてきた気がするから、脳がレベルアップしているとも言える。

いずれにせよ、高い抽象度で一ヶ月くらいの予定を俯瞰し、脳の休息をあらかじめ予定に組み込んでおくべきだろう。

 

この状態を「脳の疲労」と呼ぶのはあまりしっくりとこない。

それよりも、「新しい情報をたくさん吸収し、もともとのゲシュタルトが一時的に壊れ、進化した形で再統合しようとしている期間」であると捉えたい。

そして、こういう時間自体もなくなっていくのだというセルフイメージを作り込んでいこうと思う。

「家と外」

数日間こういった形で文章を書いていて思ったことがある。

家で一人でいる割合が多いときと、外に出て人と会っている割合が多いときでは、内容の傾向に違いがあるということだ。

家にいるときは、思弁的で内省的な内容であることが多いようだ。

 

思弁的:経験によらず、思考や論理にのみ基づいているさま

 

なのだから、当たり前といえば当たり前か。

「不安定」

昨日、今日と、すわりの悪い感覚の中過ごしている。

決して気分が落ち込んでいるわけではないし、やるべきタスクは積み重ねている。

というよりもむしろ、タスクに取り込む質や量はかなり向上しているように思える。

にもかかわらず、腹が据わったどっしりとした気分がなかなかつくれない。

なぜかと考えてみると、ここ半月ばかりの過ごし方が関係していることがわかった。

ダライ・ラマの4日間にわたる講話、灌頂にはじまり、東京でのセミナー、セッション、養成講座のサポート、CCCPの受講、大阪での養成講座サポート、ミーティング、そしてその間にある様々な予定と、この半月はかなりの密度で過ごしていた。

普段から日課のようになっている情報発信は間に行っているし、このブログを始めるなど、新たな試みにも多く取り組んだ。

そういえば、松本人志にも会った。

それら一連の結果、私のゲシュタルトは大きく揺らぎ、粉砕されたのだろう。

 

とりわけ最後の数日間のインパクトは強烈だった。

その名残として、まだゲシュタルトが不安定な状態なのだろう。

私には大きなゴールがたくさんあるので、ゲシュタルトは自分を大きくゴールの側へと進ませるような形で統合されるはずだ。

そのためには、もう少しだけ時間がかかるのかもしれない。

 

「50」

いまのところ、このブログは自分だけの楽しみとしてひっそりと続けている。

世界の片隅で、情報空間にこっそりと、しかしながら着実に書き込みをしている感覚がある。

「50」くらいの記事がたまったら、それもまたこっそりとどこかにリンクを貼ろうと思っている。

「理由」

なぜこのブログをはじめてみようと思ったのだろうか。

そのきっかけははっきりとしていて、ある尊敬する人のブログを読み込むという機会があったからだ。

そのブログには、気づいたこと、考えたこと、わからないこと、困難な出来事、どのように乗り越えたか、何を学んだかなどが、具体的に描かれていた。

私はすでにブログをひとつ運営しているが、こちらの記事は「コーチング理論を用いた問題解決」という基本方針がある。

だから、そこに個人的な内容はほとんど書かれていない。

上記の人のブログを読む中で、自分ももう少し日々格闘した痕跡のようなものを残したい、と感じた。

そこでこのブログをはじめることにした。

はじめてみて数日だが、なんだかよくわからない晴れやかな気分を抱いている。

この理由はまだよくわからない。

「タルムード」

昔から、タルムードのコンセプトに惹かれている。

古くに書かれたテクストに対して、外側に注釈が付け加えられ、そのまた外側に注釈が付け加えられる。

まるで「うず」のように、テクストが同心円状に広がっていく。

「思考」をなんとか平面上に言語で落し込むとどうしてもそうなる、という感じがする。

このブログで書く記事の一つ一つが、そういった連なり方を作り出してくれればいいと思っている。

ワードプレスにはたくさんのテーマがあるが、そのような目的に適ったものはあるのだろうか。

しばらく楽しみながら探してみようと思っている。

「自分の価値」

先日、人から少し戸惑うような扱われ方をされた。

その時に感じたのは「この扱われ方は、現在の自分の信じる自分の価値に見合わないな」ということだった。

自分の価値への確信が先にあり、それに見合わない扱われ方をしたから戸惑ったのだろう。

ありがたい、と感じた。

自分の価値を確認できた上、そういった扱われ方は自分にはふさわしくないので選択しないようにしよう、と決めることができたからだ。

みなさんは、自分の価値と扱われ方について、考えたことはあるだろうか。