「憧れの人」

先日、大阪駅の近く、丸福コーヒーで食事をとっていた。

私が注文したのはビーフシチューとコーヒーだった。

何気なく辺りを見回しすと、少し離れた席に体格のいい金髪の男性が座っていた。

松本人志だった。

私は20年来の松本人志ファンで、彼の数々の作品とともに成長してきたと言っても過言ではない。

『ごっつええ感じ』、『ガキの使いやあらへんで』、『ヴィジュアルバム』、『一人ごっつ』、『働くおっさ人形』、「モーニングビッグ対談』など、あげていけばきりがない。

とりわけ、放送作家の高須光聖とやっていたラジオ番組『放送室』は、何もすることがなく、とても暇だったころに繰り返し何度も聞いた。

あの松本人志が声をかければ振り向くくらいの距離にいる、そう思うと私の心臓の鼓動は早まった。

もう少し正確に言えば、松本人志かもしれないと思った瞬間にはもう鼓動は通常の速さではなかった。

いずれにせよ、これはおかしなことだなと感じた。

なぜなら、言い方は悪いが、向こうに座っているのは単なる「おかしな髪の色をした筋肉質の中年男性」に過ぎないわけだ。

その人がいくら笑いの天才であろうと、目の前にいるだけではわからない。

にもかかわらず、私の心臓はどきどきとしていているのだ。

なぜだろうか。

私たちの多くは、いつの間にか外側から「これが重要である」という価値観を刷り込まれている。

この価値観のことをブリーフ(belief)という。

そしてそのブリーフに基づき、思考し、行動をする。

ブリーフによって心臓の速さまで変えてしまう。

私は松本人志が重要であるというブリーフを、どこまで自らの意思で決めたのだろうか。

いままで一度もそんなこと考えたことはなかったな、そう思いながら帰宅し、動画を見てみた。

相変わらず普通ではない笑いを追求している画面の中の松本人志は、相変わらず最高に面白かった。

やはり自分にとって彼は重要な存在である、そう決めることにした。

これを読んでいる皆さんにとって無条件に重要なものは、自分で決めるというプロセスを経たものだろうか。

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