「忘年会」

本日は、コーチの仲間たちと少人数での忘年会を行った。

といっても、特別な何かをするというわけではなく、食事をしながら語るというものだ。

トルコ料理を出す店で、丁寧に作られた大変美味しいものばかりだった。

最後にはしっかりと、トルココーヒーを飲み、トルコアイスを食べた。

 

コーチの仲間たちには、いろいろな経験をされてきた人が多い。

日本という垣根を越えて、世界自由で見聞を広げてきたような人たちだ。

そういう人たちの話を聞くのはとても楽しいし、勉強になる。

また、自分がみてきた世界は、まだまだ狭いものだったのだなと、痛快でさっぱりとした気持ちが湧いてくる。

こういった人たちと同様の経験を自分も積んでいくことができれば、もっともっと成長できるだろうと、自分に対する期待感が上がる。

こういった心の動きを一般に「刺激を受ける」というのだろう。

またひとつ、来年の指針が見えてきた。

たくさんの「経験」を積むというものだ。

来年がこんなに楽しみな今年は、人生ではじめてかもしれない。

 

「つけ麺」

少し時間が空き、お腹が空いたので外食をしようと思った。

付近に「つけ麺」を出す店があったので、入ってみた。

よく考えてみると、このような「つけ麺」を食べるのは実に久しぶりだった。

最近では、味覚が変わってきたこともあり、このような「強い」味のものはあまり食べなくなってしまったのだ。

麺は少なめで注文して、10分くらい待つと、「つけ麺」がやってきた。

食べてみると、美味しくも不味くもなかった。

いや、この表現はあまり的確ではないかもしれない。

美味しいのは美味しいと感じている。

しかし、美味しいとか不味いとかを感じる世界とはちがったところから、行為そのものを俯瞰している自分の感覚がより強かった。

それは美味しいとか不味いとかではなく、ただ食べているという感じ方だった。

食べた「つけ麺」の味自体での感動はさほどなかったが、そのような自分の感覚の変化(進化?)に対する感慨は深いものだった。

この感覚の変化は、自分のゴールにとってはよいものだと考えている。

 

「人との出会い」

東京に来て、毎日、人と会っている。

どのような相手であったとしても、何か得るものがある。

自分が物事を教えてもらっている相手であれば当然だが、自分が何かを伝える相手であっても同様だ。

なぜだろうか。

それはゴールからくるセルフイメージによるものだと考えている。

私のセルフイメージには「出会う人すべてから何かを学ぶことのできる自分」というものがある。

人はセルフイメージ通りの行動しかできない。

だから、どのような出会いであれ、何かを学んでしまうのだ。

いきなりこのようなセルフイメージを持っていたかといえば、決してそういうわけではない。

セルフトークをマネジメントし、意図的に作り込んだのだ。

一般に、ゴールの世界の自分を前提として、肯定的な方向へとマネジメントされたセルフトークをアファメーションと呼ぶ。

アファメーションとは、セルフトークの全部ではないが、一部だ。

アファメーションを用いて、私はそのようなセルフイメージを作ったのだ。

 

セルフトーク(self-talk) ⊇  アファメーション(affirmation)

セルフイメージ(self-image)

行動(behavior)

 

これを覚えておくといいだろう。

「論理の罠」

一般に、論理的であることはよいことであるとされる。

しかし、デメリットはないのだろうか。

私は最近、論理的であるがゆえのデメリットをよく実感する。

それは、論理が思考の可能性を制限するということだ。

論理的であるということは、思考に対してある一定の筋道を与えるということだ。

その筋道がある程度妥当なものであるとすれば、その結論は真に近いと考える。

しかし、筋道を与えていくということは、筋道から排除されるものがあるということを意味する。

それにより、当然のことながら、見えないものが生まれる。

 

では、論理的でないほうがいいのだろうか。

論理的の反対は、感覚的であると言うが、感覚的であるほうがいいのだろうか。

それはそれで短絡であろう。

なぜなら、論理を否定する形での感覚は、単なる無秩序状態であり、いわばなんでもありの状態だ。

そんな状態でよい議論ができるはずがない。

 

そうなると、論理的であることを前提として、論理的であるあり方そのものを俯瞰し、その論理の筋道から排除されたものを同時に観察する態度を維持することがよさそうだ。

論理的な筋道を、ひとつ上の抽象度から眺める視点を持つ、と言い換えることもできるだろう。

そして、その「ひとつ上」には「さらに上」があり、それは事実上無限に続く。

そのような階層を想定しながら、一望俯瞰的に認識し、適宜もっとも良い階層を選択することが望ましい。

「freedom」

毎日毎日、世の中知らないことばかりだなと感じる。

知らないことに触れると、知らなかったのではなく、受け入れてなかったのだなと思うことが多い。

いかにブリーフに縛られ、自分の可能性を縛ってるのかを痛感させられる。

コーチとして活動し、それなりに経験も積んできているのにも関わらず、まだまだ歯がゆく思うことも多い。

いや、コーチだからこそ、よりそう思うのかもしれない。

ただしそれは、決してネガティブなものではない。

自分に対する expectation (期待) がゆえのことだ。

自分にはもっと可能性があると確信しているからこそ、その反作用としてじれったく思うことがたくさんあるということだ。

 

特に、人との関わりの中でそれを感じることが多い。

世の中には自分の知らないことを知り、経験してきている人がほんとうにたくさんいる。

そういう人と出会うと、素直に敬意を抱くし、何かそこから学ばせてもらおうという気持になる。

こういうところは、自分の性格の中でも最も気に入っているところだ。

 

来年はいままでの人生の中で最も多くの人と出会うと決めている。

その中で、自分がどのように変化・成長していくのか、ほんとうに楽しみだ。

「アカデミーヒルズ」

今日は六本木にある、六本木ヒルズ49階にあるアカデミーヒルズに行ってきた。

プレゼンテーションに関するセミナーを受講するためだ。

プレゼンテーションをどのように表現していくかというもので、実に参考になった。

もちろん、内容によっては、すでに自覚的に取り組んでいるようなものもたくさんあったが、やはり専門家から全体像とともに学ぶことに深い意味がある。

自分が持っていた部分情報も、全体像の中に組み込まれることにより、新たに違った見え方がしてくるものだ。

 

終わってから知ったのだが、そのフロアは、ルー・タイスが日本で初めてセミナーを行った場所だったそうだ。

なんとなく、感慨深いものを感じた。

「to TOKYO」

東京に向かっている。

 

東京に行く際、いつも利用するのは「ぷらっとこだま」だ。

新幹線「こだま」なので、各駅停車で、新大阪から東京まで4時間かかる。

しかし、出発日よりも早めの予約さえ問題なければ、グリーン車が11800円で予約できる。

これは「ひかり」や「のぞみ」の指定席よりも安い値段だ。

 

たいていの場合、席はガラガラで、いまも同一車両内に10人も座っていない。

当然のことながら、静かだ。

聞こえてくるのは、たまに流れる車内放送と、新幹線が風を切る音くらいのものだ。

また、シートはどっしりとして厚く、照明も自由席や指定席と比べて落ち着いて温かみのあるトーンだ。

非常に居心地のいい空間だ。

 

私はこの場を書斎だと考えて活用している。

読書や、資料作成、スケジュール作成、仮眠など、ゆったりとした時間を過ごす。

もちろん、食事をとったりもする。

そんな過ごし方をしていると、一人の移動であっても、4時間なんてあっという間に過ぎてしまう。

 

新大阪〜東京間を移動する人にはおすすめだ。

 

「具体性」

最近は、具体的なことに強い興味を持っている。

これは人生初のことかもしれない。

もちろん、以前も具体的な知識や体験というものをそれなりに大切にしていたつもりだ。

しかし、あくまで関心の中心は、知識を動かす論理であり、体験を抽象化したプリンシプルであった。

より汎用性の高い論理やプリンシプルを体得することに注力を注いだ。

論理やプリンシプルをある程度運用することができるようになった今、さらに次のステップ、つまりその運用によってもっと世の中に対して好影響を与えていくためには、当の世の中のことをもっと知らなくてはならないと感じている。

論理やプリンシプルだけでも、世の中の事象に対してそれらしい結論や解決策を示すことができるのかもしれない。

しかしそれは、現実をあまり知らない上で述べられた、いささか空理空論めいたものになる。

それならばまだいいが、理屈が先行した的外れなことだって言いかねない。

私がほしいのは、「それらしい結論や解決策」ではなく、「しっかりとした結論と実際の解決」なのだ。

そのためには、具体的な知識をたくさん得る必要がある。

それこそ大量に、ものすごく大量に得る必要がある。

そうして、論理やプリンシプルに、血を通わせ、肉を持たせるべきだと考えている。

 

そんなことを考えながら本や新聞、雑誌を読んでいると、まだまだ知らないことが多いと反省させられる。

もっと勉強せねばと素直に思う。

「饒舌な制作会社のディレクター」

菊地成孔が好きで、今もよく彼の音楽やラジオ(粋な夜電波)を聴く。

最近は、彼が90年代から00年代初頭までやっていたバンド「スパンクハッピー」がお気に入りだ。

特に、「岩沢瞳」在籍時のサウンドが、華美で空っぽな80年代の感じが出ていてよい。

本人は、ファッションショー時にモデルが合わせてウォーキングをする音楽(彼はそれをウォーキング・ミュージックと定義した)をベースにしたものだと語っていた。

 

けっこう昔のことになるが、菊地成孔のライブを、「ビルボード大阪」(当時は「ブルー・ノート大阪」に観にいったことがある。

確か5人くらいのジャズ・コンボだった。

官能的に輝くサックスの音色と、演奏の合間にシャネルの香水を宙に振りまく菊地成孔の手首が印象的だった。

 

演奏の合間に、隣にいた中年の男性に声をかけられた。

テレビ番組の制作会社に勤めていると言ったその人物は、やたらと饒舌に、菊地成孔がいかに素晴らしいアーティストであるかを私に語った。

特に拒絶する必要も感じなかったので、私は黙って彼の話を聞いていた。

演奏終了後、私たちは連絡先を交換して別れた。

 

その直後私は、タイに行った。

一人でバックパックを背負って、3週間ほど暑い国をまわった。

バンコク市内に、バックパッカーが集う街に「カオサン」ということろがある。

ある朝、カオサンのネットカフェにて、久しぶりにメールを開いた。

すると、例の男性から連絡がきていた。

短い謝辞のあと、「私が好きそうな」推薦アーティストが列挙されていた。

そしてそのリストには、200以上のアーティスト名が並んでいた。

 

少々面食らったが、私は男性に興味が出たので、帰国したら食事でもしませんか、と返信をしておいた。

しかし、それっきり連絡がこなくなってしまった。

 

あれからもう何年も経ってしまったが、何かの折に連絡が返ってこないかと思っている。

「食事の件ですが、念のため店をピックアップしました」などというタイトルで、長い長いリストが送られてくればとても愉快だ。

そのときは、一番オススメの店はどれですか、などという野暮な質問はしないでおこうと思う。

「野菜、その後」

少し前に、実家から大量の野菜が送られてきた話を書いた。

やっと終わりが見えてきた感じだ。

たまねぎ一つ、ジャガイモ二つ、サツマイモ三つと、白菜が四分の一くらい残っている。

あとは、柚子のはちみつ漬けも三分の一くらいか。

野菜の値段は結構バカにならないのでありがたいのだが、とにかく量が多くて、大変だった。

仕事が忙しく、なかなか人に会うタイミングがなかったので、あげるという選択もできなかった。

とりあえず、今日は白菜と決着をつけようと思っている。