「論理の罠」

一般に、論理的であることはよいことであるとされる。

しかし、デメリットはないのだろうか。

私は最近、論理的であるがゆえのデメリットをよく実感する。

それは、論理が思考の可能性を制限するということだ。

論理的であるということは、思考に対してある一定の筋道を与えるということだ。

その筋道がある程度妥当なものであるとすれば、その結論は真に近いと考える。

しかし、筋道を与えていくということは、筋道から排除されるものがあるということを意味する。

それにより、当然のことながら、見えないものが生まれる。

 

では、論理的でないほうがいいのだろうか。

論理的の反対は、感覚的であると言うが、感覚的であるほうがいいのだろうか。

それはそれで短絡であろう。

なぜなら、論理を否定する形での感覚は、単なる無秩序状態であり、いわばなんでもありの状態だ。

そんな状態でよい議論ができるはずがない。

 

そうなると、論理的であることを前提として、論理的であるあり方そのものを俯瞰し、その論理の筋道から排除されたものを同時に観察する態度を維持することがよさそうだ。

論理的な筋道を、ひとつ上の抽象度から眺める視点を持つ、と言い換えることもできるだろう。

そして、その「ひとつ上」には「さらに上」があり、それは事実上無限に続く。

そのような階層を想定しながら、一望俯瞰的に認識し、適宜もっとも良い階層を選択することが望ましい。

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