「内部表現の書き換え」

「内部表現の書き換え」とは、苫米地式コーチングの中心概念である。

ただ、この概念の解釈は少し難しくて、偏ったイメージが持たれているようにも感じる。

この記事では、「なぜ偏ったイメージになるのか」については書かないが、内部表現の書き換えが「どういったものか」のヒントになる内容を書こうと思う。

 

内部表現の定義は、「情報処理主体が意識的、無意識的に認識しているものすべて」だ。

この場合、情報処理主体は人間と考えて問題ない。

このときの「認識しているもの」には、自分自身のことも含まれる。

なぜなら人間は、自分のことを観察し、記述するという内省的自我を持っているからだ。

「おなかがすいているぞ」とか「あれ、おれはいま頭にきているな」とか、「私は人前で話すのが苦手だわ」などが、内省的自我による認識の例だ。

いずれにせよ、人間という情報処理主体が意識的、無意識的に認識しているものを内部表現と呼ぶ。

 

よく考えてみればわかると思うが、この内部表現のあり方がその人の世界そのものだ。

ある女優がテレビに出ていて、「この人綺麗だな」という認識を持つ人はそういう世界に生きているわけだし、「たいしたことないな」という認識を持つ人は、違った世界に生きている。

人生を変える、好転させるには、内部表現を変える必要があり、そこで内部表現の書き換えという概念が生まれてくるわけだ。

 

書き換えのテクニックはたくさんあるが、その多くは言葉を使わないものであるため、ここで書くことはほとんど不可能だ。

ただ、書き換えがどのようなものであるのか、について説明することはできる。

たとえば、私があなたに「昨晩は何を食べましたか」と質問をしたとする。

実はもうこれが、内部表現の書き換えになっている。

なぜなら、その人の認識は、私が質問をすることで、それまでのとはまったく違うものにフォーカスすることとなっているからだ。

こう考えると、内部表現とは、ほとんど常態として「書き換わり続けて」いるとわかる。

外側から情報が常に入ってきているからだ。

つまり、内部表現の書き換えとは、何も特別なことではないのだ。

なぜか特別なことのように見えてしまいがちなので、注意すべきだと私は思っている。

 

何が重要かは、もう少し違うところにある。

「内部表現を書き換える」ことが重要なのではなく、「内部表現を効果的に書き換えるための意図」が重要なのだ。

 

いま思いついたのは、「方向」、「推進力」、「定着」というワードだ。

「方向」とは、内部表現をどのような状態へと書き換えるかだ。

「推進力」とは、内部表現をどのくらいの効果で、書き換えられるかということだ。

「定着」とは、書き換えられた内部表現をどのように維持するかだ。

内部表現は書き換わり続けているのが当たり前だとしたら、上記のような意図がない書き換わりには、あまり意味がないと考えられる。

上記の意図をどのように上手に扱っていくかの説明は、いずれもコーチングの概念を複数用いて構築する必要がありそうだ。

長くなりそうなので、それはまた別の機会にでも。

「自信」

誰かに自信をつけさせてあげたいときには、本人が自信を持っている必要がある。

そうでなければ、一緒に自信のない状態を悲しむだけになるからだ。

そのときの自信とは、徹底的に自分で自分のことを評価するものであるべきだ。

自分の評価にもいろいろあるが、特に、ゴール(goal)を達成するための能力が自分にはあるという種類の自己評価のを、エフィカシー(efficacy)と呼ぶ。

エフィカシーが高くあるためには、高いゴールが必要である。

ということで、誰かに自信をつけさせてあげたときは、自分が大きなゴールを持っているかが重要なことのひとつとわかる。

 

教育のプロが教える、子供に自信をつけさせるとっておきの方法

「読書歴」

最近読んだ本。

 

「超簡単 お金の運用術」山崎元

「ゴールドビジョン」久野和禎

「レバレッジ人脈術」本田直之

「レバレッジ勉強法」本田直之

「パーソナルマーケティング」本田直之

「文は一文目から書かなくていい」藤原智美

「伝え方の教科書」木暮太一

「成功は服が決める」西岡慎也

「働き方革命」駒崎弘樹

 

ビジネス書を中心に攻めている。

「つけ麺」

少し時間が空き、お腹が空いたので外食をしようと思った。

付近に「つけ麺」を出す店があったので、入ってみた。

よく考えてみると、このような「つけ麺」を食べるのは実に久しぶりだった。

最近では、味覚が変わってきたこともあり、このような「強い」味のものはあまり食べなくなってしまったのだ。

麺は少なめで注文して、10分くらい待つと、「つけ麺」がやってきた。

食べてみると、美味しくも不味くもなかった。

いや、この表現はあまり的確ではないかもしれない。

美味しいのは美味しいと感じている。

しかし、美味しいとか不味いとかを感じる世界とはちがったところから、行為そのものを俯瞰している自分の感覚がより強かった。

それは美味しいとか不味いとかではなく、ただ食べているという感じ方だった。

食べた「つけ麺」の味自体での感動はさほどなかったが、そのような自分の感覚の変化(進化?)に対する感慨は深いものだった。

この感覚の変化は、自分のゴールにとってはよいものだと考えている。

 

「人との出会い」

東京に来て、毎日、人と会っている。

どのような相手であったとしても、何か得るものがある。

自分が物事を教えてもらっている相手であれば当然だが、自分が何かを伝える相手であっても同様だ。

なぜだろうか。

それはゴールからくるセルフイメージによるものだと考えている。

私のセルフイメージには「出会う人すべてから何かを学ぶことのできる自分」というものがある。

人はセルフイメージ通りの行動しかできない。

だから、どのような出会いであれ、何かを学んでしまうのだ。

いきなりこのようなセルフイメージを持っていたかといえば、決してそういうわけではない。

セルフトークをマネジメントし、意図的に作り込んだのだ。

一般に、ゴールの世界の自分を前提として、肯定的な方向へとマネジメントされたセルフトークをアファメーションと呼ぶ。

アファメーションとは、セルフトークの全部ではないが、一部だ。

アファメーションを用いて、私はそのようなセルフイメージを作ったのだ。

 

セルフトーク(self-talk) ⊇  アファメーション(affirmation)

セルフイメージ(self-image)

行動(behavior)

 

これを覚えておくといいだろう。

「事務所に堆積した音楽『場』」

とある事務所に来ている。

そこで音楽を聴いていて、気がついたことがある。

場所を変えて聴いた音楽は、違うものに聴こえるということだ。

それは、スピーカーが良いとか、アンプが上等だとかいった話をしているのではない。

もちろんそれもあるだろうが、もっと広い意味合いでの話だ。

その事務所である音楽が長い間聴かれていたという事実があるとする。

そして、その音楽は「その音楽を聴きたい」という能動的な形で聴かれていたとする。

これは当たり前だろう。

聴きたくないという形で音楽が聴かれることは少ないはずだ。

そうすると、そこには、その音楽が「聴かれる」ために最適な情報が積み上がっていく。

それは、オーディオのちょっとした設定や配置かもしれないし、その部屋にあるその他のもの、あるいは、もっと観念的な気配や気なども関わっているのかもしれない。

あまり広げすぎると話がオカルトめいてくるが、要するに、ありとあらゆる情報が、その音楽を聴きたいという欲求のもと最適化されているということだ。

もちろんそれは、その場にいる「聴く主体者にとって」の最適化ではある。

しかし、その音楽のひとつの「聴き方」のよい模範となることは確かだ。

だから、場に行き、自分の体をその場のあり方に預けてみると、それまでよさがわからなかった音楽の、新しい魅力が伝わってきたりする。

その場に情報として積み上がっている、その音楽に対する聴き方に触れることで、自分の感じ方が変わるのだ。

それは、自分だけではなかなか到達することのできない世界だ。

これを読んでいるみなさんも、自分の何かを変えようとするのなら、ぜひとも「場」に行ってみるということを押すすめする。

新しい感覚がつかめるはずだ。

ただし、本当に自分の中にその感覚を定着させようとするのなら、それなりのリソースがいるかもしれない。

一瞬で受け入れるだけの度量か、あるいは、じわじわと受け入れていくための時間といったところだろうか。

「論理の罠」

一般に、論理的であることはよいことであるとされる。

しかし、デメリットはないのだろうか。

私は最近、論理的であるがゆえのデメリットをよく実感する。

それは、論理が思考の可能性を制限するということだ。

論理的であるということは、思考に対してある一定の筋道を与えるということだ。

その筋道がある程度妥当なものであるとすれば、その結論は真に近いと考える。

しかし、筋道を与えていくということは、筋道から排除されるものがあるということを意味する。

それにより、当然のことながら、見えないものが生まれる。

 

では、論理的でないほうがいいのだろうか。

論理的の反対は、感覚的であると言うが、感覚的であるほうがいいのだろうか。

それはそれで短絡であろう。

なぜなら、論理を否定する形での感覚は、単なる無秩序状態であり、いわばなんでもありの状態だ。

そんな状態でよい議論ができるはずがない。

 

そうなると、論理的であることを前提として、論理的であるあり方そのものを俯瞰し、その論理の筋道から排除されたものを同時に観察する態度を維持することがよさそうだ。

論理的な筋道を、ひとつ上の抽象度から眺める視点を持つ、と言い換えることもできるだろう。

そして、その「ひとつ上」には「さらに上」があり、それは事実上無限に続く。

そのような階層を想定しながら、一望俯瞰的に認識し、適宜もっとも良い階層を選択することが望ましい。

「本音」

なかなか本音を言えなくて困っているという人がいる。

では、そういう人をどのように導いてあげるのかという話になる。

「本音で言えばいいじゃん」とだけ言い切ってしまうのは、乱暴な話だろう。

そこで、本音が言えない人のマインドのメカニズムを分析し、それに基づいた対処法を書いた。

一朝一夕では変わらないかもしれないが、本質的な変化を求める人にはおすすめだ。

 

本音を言えない人のための心理学

「仕事の最適化」

最近よく考えている、仕事の最適化についてだ。

ゲシュタルト(認識のまとまり)を意識して、最適な形に設計し、無意識化する。

簡単に言えば、仕事の最適化とはこれだけだ。

表現してしまえば一文で終わってしまうのだが、これが実に奥が深い。

ありとあらゆる大小のゲシュタルトが存在し、それらを最適な形にしていく必要があるからだ。

しかも、最適化した一瞬あとには、さらによりよい最適化の可能性が出てくる。

常に物事は流動的であり、一瞬一瞬に新しい状況が生まれてくるからだ。

状況が変われば、最適な形が変わるのも当然だろう。

そこで、「リミット」を考える必要が出てくる。

リミットとは、要するに締め切りのことだ。

締め切りがあるから、そこで最適化をやめるという判断が出てくる。

もし、締め切りがなければ、永遠に最適化をしなければならない。

 

リミットと最適化のせめぎ合いを、さらにひとつ上の抽象度から観察し、設計をしていく。

そんなことを考えながら、日々の仕事をこなしているが、まだまだ工夫の余地がありそうで楽しくなってくる。

「いじめ」

大人になってまで、いじめをしている人がいる。

救いようのないことだと思う。

いじめられていると感じる人は、他人を頼りましょう。

いじめられていると感じないけれど、なんだかつらいと感じる人は、自分の身になにが起きているのかを知るために、他人に頼りましょう。

 

他人を通してわかる自分のことはほんとうに多い。

他人と関わることではじめて、自分の面している危機や、その裏側として可能性を知れることもある。

その際の他人とは、現状の外側の他人であってほしい。

現状の内側にいる他人と関わりを深めても、いままでの自分のスコトーマを強化するおそれがあるからだ。

 

職場のいじめに疲れた人が意識するべき大切なこと