「魔法少女」

「魔法少女」は、日本のアニメーションの重要なモチーフのひとつのようだ。

少女性、自我の確立、共闘、善悪の彼岸など共通するテーマが、時代に即したそれぞれの作品の形で、繰り返し執拗なまでに描かれ続けている。

そして傍には、『神曲』のウェルギリウスのごとく、異界からやってきた小さな生命体が物語の導き手としてかならず侍る。

私のベストワン魔法少女作品は『魔法少女まどか☆マギカ』で、この先もう揺らぐことがないのではないかと思うくらいだ。

虚淵玄の脚本、蒼樹うめのキャラクターデザイン、シャフトの製作、劇団イヌカレーのデザイン・美術と奇跡のような組み合わせで成り立っている。

もちろん音楽も素晴らしい。

久々に見返そうかと思っている。

「コーポレートコーチング(上)」

苫米地英人『コーポレートコーチング(上)』を読み返してみた。

先日、Cognitive Corporate Coaching Program(CCCP)を受講した上で、読み返してみると、実にいろいろな発見があった。

まず当然のこととして、以前よりも内容が頭に入ってくる感覚がある。

これは、練り上げられたプログラムを受講したことで、コーポレートコーチングの大きなゲシュタルトが体感できたからだろう。

また、最近は組織単位で動くことも多くなってきているので、実感できる実例を自分の中にたくさん積み上げていっているのもあるだろう。

いずれにせよ、自分が成長を遂げているということなので、嬉しいものだ。

続けて『コーポレートコーチング(下)』も読み返したい。

「だから言ったじゃん」

私が最も嫌いな発言のひとつに「だから言ったじゃん」というものがある。

他人から言われるのも好きではないし、自分は絶対に言わないように気をつけている。

 

Aに対して「こうするべきだ」とBが言った。

そのときAは、うまくそれを受け入れることができなかった。

時間が経ち、Aはそのことが腑に落ち、受け入れたとする(あるいは、相変わらず受け入れられないままで、それが何かの失敗につながってしまうようなこともある)。

その場合には、かつてBに言われたことすら忘れているかもしれない。

そんなAを見て、Bは「だから言ったじゃん」「前から私はそう主張している」「ほら言った通りになったじゃないか」と言う。

こういうケースだ。

 

なぜ嫌いなのかを分析してみると、生産性がないからだ。

唯一あるとしたら、発言者の我が満たされるということだけだろう。

本来、言った通りのことを受け入れたとしたら、Aの成長でありそれは喜ぶべきことだ。

また、言った通りのことが受け入れられなくて失敗につながったとしても、それをきっかけによりよいAになるチャンスと捉えることもできる。

そのいずれの方向へも行かないのが、Bの「ほら言ったじゃん」なのだ。

示されるのは、Aに対するBの正当性、優位性のみであり、Aは洞察の鈍い自らを恥じ、自己評価を下げる方向へと進むしかない。

 

書いていて、この発言の気に入らなさは、本音と建前の乖離にあるのかもしれないと気が付いた。

Bが「こうすればいい」と言うのは、通常「相手のために」というスタンスを取る。

この時点では、「こんなことを理解している自分はすごいのだと示したいから言う」というスタンスはとらないだろう。

もし「相手のために」というスタンスが真ならば、時間がかかってもAが築いてくれれば喜ぶべきことだ。

しかし、実際には「ほら言ったじゃん」と言う。

これは「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだろう。

また、「相手のために」というスタンスが真ならば、Aがなかなか受け入れられず失敗をしたときこそ、上手に「こうすればいい」を伝えるチャンスなはずだ。

にもかかわらず、「ほらいう通りにしないからだ」と言う。

ということは、やはり「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだ。

このように、建前としては「相手のために」を取りながらも、局面が変化すれば「自分の正当性、優位性を主張する」本音が出るという構造がある。

このことに対して憤りを感じるのかもしれない。

 

自分がそのようにならないよう気をつけている。

そのためには、わざわざ人に自分の正当性、優位性を主張する必要がない状態になっていればよい。

すなわち、自分で自分の圧倒的価値を認められるようになっておけばよいということだ。

「概念 / concept」

概念の定義を理解すること自体は、さほど難しいことではない。

ところが、概念を自在に使いこなそうと思うと、これがなかなか難しく、時間がかかるものだ。

 

包丁があるとする。

包丁が何であるかを理解することは簡単だろう。

食材を切るためのものだ。

しかし、包丁を自由自在に使いこなせるようになるには、それなりの時間を要する。

数ある食材に対し、それぞれベストの力加減、角度、スピードなどを同時並列的に処理できるように長けていく必要がある。

それなりに時間がかかるだろう。

概念を自在に使いこなせるようになることは、このことに似ている。

 

先日、Cognitive Corporate Coaching Program(CCCP)を受講した。

私が主戦場としてきたパーソナル・コーチングは、一人に対して施すものだが、このプログラムでは人が集まった組織そのものにコーチングを施すものだ。

必然的に、新しい概念が登場する。

それらの定義を理解することは問題ないのだが、やはりその運用にぎこちなさを感じる。

慣れるための方法は単純で、失敗を恐れず積極的に使ってみることだ。

 

指を切ることを恐れて包丁を握らないようでは、いつまで経っても上達しない。

「a long sleep」

今日はとても長い時間眠った。

 

火曜、水曜と、それまでの激動のスケジュールの影響で、うまく頭が働かない状態だった。

ようやく木曜(本日)になって、少し回復したかな、という兆しを感じる。

かなり濃い予定が2〜3週間続くと、このような状態になるというデータがとれた。

以前はもう少し、短い時間で生じてきた気がするから、脳がレベルアップしているとも言える。

いずれにせよ、高い抽象度で一ヶ月くらいの予定を俯瞰し、脳の休息をあらかじめ予定に組み込んでおくべきだろう。

 

この状態を「脳の疲労」と呼ぶのはあまりしっくりとこない。

それよりも、「新しい情報をたくさん吸収し、もともとのゲシュタルトが一時的に壊れ、進化した形で再統合しようとしている期間」であると捉えたい。

そして、こういう時間自体もなくなっていくのだというセルフイメージを作り込んでいこうと思う。

「英語の夢」

今朝、英語の夢を見た。

自分が英語で会話をする夢だ。

「ねえ、君は『lakeland』製のベースを使っていないか? 先日アメリカのストリートで、君らしき人がベースを弾いているのを見た記憶があるんだ」

こんなことを話した気がする。

向こうから英語での返答があったはずだが、それはよく覚えていない。

 

英語に力を入れ始めて、しばらくが経ったが、英語脳が活性化してきたということなのだろう。