久しぶりに「餃子の王将」に行った。
天津飯と餃子を頼んだ。
餃子と銘打っているからには、餃子を頼まなくてはならないような気分になってくる。
私はこの餃子を心からの want to で注文したのだろうか。
そんなことを真面目に考えたりする。
餃子は美味しかった。
So we beat on, boats against the current,borne back ceaselessly into the past.
久しぶりに「餃子の王将」に行った。
天津飯と餃子を頼んだ。
餃子と銘打っているからには、餃子を頼まなくてはならないような気分になってくる。
私はこの餃子を心からの want to で注文したのだろうか。
そんなことを真面目に考えたりする。
餃子は美味しかった。
websiteの制作について学んでいる。
ひとくちでwebsite製作と言っても、その世界は非常に広大だ。
ワードプレスでブログを運営するようになって1年半くらい経つが、その過程の中でwebsite制作の全体像がうっすらとだが見えてきた。
実際に必要に迫られている面もあるので、これからはもう少し具体的かつ実際的な知識を勉強することになりそうだ。
まさにOJT(On the Job Training)。
実際に仕事としてやりながら勉強していく形だ。
ハードだが、やはり何事もOJTが一番スピーディーに成長できると思う。
実践できる場があるのは幸せなことだ。
同調圧力が嫌いである。
いつの間にか出来上がっていることが多いが、組織(コーポレート)があれば同調圧力が生じる。
この場合の組織とは、会社組織に限らない。
あらゆる集団という意味だ。
なぜ同調圧力が嫌いかといえば、それは卑怯だからだ。
卑怯の定義はいろいろとあるが、一貫性がないということがひとつある。
言語で明言されているルールであれば、それは同調圧力でもなんでもない。
しかし、明言されていないものの確かにあるルール(のようなもの)によって、暗黙のうちにそれを守ることを迫るということがある。
暗黙のものに対して一貫性は持たせようがない。
なぜならそれは、状況にあわせて都合よく変化させうるからだ。
これをうまく利用して自分の利益のみを最大化する人は、間違いなく卑怯な人だろう。
私たちコーチは、役割上、非言語情報の扱いに長けている必要がある。
それはクライアントのマインドの変化を促すために必要なものだ。
同時に、同調圧力をはじめとする、非言語に関する世の中のネガティブな側面に対しても、しっかりと観察し、良い状況を生み出すよう働きかけていきたいものだと思う。
そのためには、言語運用に長ける必要がある。
言語こそが非言語の曖昧さ、不透明さを是正する(苦肉の)手段だからだ。
やはり、非言語は言語とセットになって学んでいくべきものだと思う。
3週間ばかり濃密な予定が続き、今週の月曜日にそれが終わった。
その結果、ゲシュタルトが一時的に破壊され、それが落ち着くまで数日を必要とした。
具体的には、なんとも落ち着かない精神状態や、筋肉のこわばり、眠気、頭痛、集中力の欠損などが生じる。
そして、金曜日である今日、だいたいもとの状態に戻ったように感じる。
落ち着くまでの間に、何もやっていないわけではない。
基本的には仕事をしている。
ところが、よく自分を観察してみると、やはり高度に脳を使うようなタスクをこなすことは難しいようだ。
自分が成長するためには、すでに出来上がったゲシュタルトを壊し、ゴール側へと再統合することを繰り返す必要がある。
ところが、ゲシュタルトの破壊の規模が大きすぎると、リカバリーに少々時間がかかる。
リカバリーの数日を仕方のないものとして受け入れるか、あるいは、ゲシュタルトの破壊の規模をもう少し抑え、小刻みに変化をしていくのか。
どちらがいいのかは一概には判断がつきづらい。
しかし、最近では、数日にわたって影響が出るほどでもなく、それなりにゲシュタルトの破壊が生じる程度のスケジュールの組み方が望ましいのではないかと考えている。
言葉では説明しづらいのだが、成長のペース(ゲシュタルトの破壊の規模)と、リカバリーに必要な時間の関係には、ちょうど二次関数の最大値をとるようないいポイントがあるような気がする。
書いていて思いついたのだが、成長のペースと、リカバリーの時間とのさらに上の抽象度で何か考えることができれば、もっと成長が早く、リカバリーする時間も必要のないアプローチがあるかもしれない。
それが何かはまだわからないが、そのうち思い付くだろう。
このブログの文章を書くのは、すごく楽だ。
1日こればかりやっていれば、ものすごい量の記事が書けると思う。
なんでだろう、と考えてみた。
物事を考えるとき、何かの比較対象があるとよい。
その差異から、本質が見えてくるからだ。
私のブログに『REen』というものがある。
これは、コーチングの理論を用いて、世の中の問題に対する解を示すというはっきりとした目的がある。
また、読者に問題を解決するヒントとして活用してもらう以外にも、読者がコーチングを理解していくための読み物という機能も持たせている。
だから、コーチングをまったく知らない人が読んでも、ひっかかるところがないように書いている。
もちろん、読むのには論理的思考を要求するので、その点でついていけないという人はいるかもしれない。
しかし、用語がわからなくて理解不能であるという状態にはならないはずだ。
そのため、用語の定義や運用にはかなり気を配って書いている。
だから書くのに非常に時間がかかるのだ。
それに対して、このブログでは、いま言ったようなことをほとんど意識していない。
なぜなら、一つの記事で何かを伝える作業を完結するというパッケージではなく、ブログのたくさんの記事全体をなんとなく読むことで、大きなゲシュタルトが出来上がることを期待しているからだ。
だから、あまり厳密にひとつひとつの記事を書く必要がない。
いろんな記事を気の赴くままに読んでもらえると嬉しい。
いまでこそコーチとして全国に関わってくれる人がいるが、1年半前はまったく知名度ゼロのところからのスタートだった。
どうやって自分のことを知ってもらおうかなと考え、当時はやりはじめていたコンテンツマーケティングを学びにいった。
インターネット上で質の高いコンテンツを提供し、それをもとにラポールを形成し、自分の提供しているものに興味を持ってもらうという手法だ。
幸い文章を書くのは大好きだったので、ブログ記事というコンテンツを作ることは、問題なく始めることができた。
もちろんそれに伴い、ワードプレスの設定の仕方やSEO対策などたくさんのことを勉強した。
いまでこそワードプレスで情報発信するのは当たり前になっているが(コーチも含めて)、当時はそういう人は少なかったように記憶している。
ウェブ上でのマーケティングについて学んだものの、それは個人レベルに限った話だ。
もっと大きな規模、つまりマスマーケティングに関しては、わからないところも多い。
興味はあるので、マーケティングをもっと学びたいという気持ちもある。
みうらじゅん「ない仕事の作り方」を読んだ。
くだけた文体と、具体例としてあげられる対象や、手法のネーミングのユニークさが印象的だ。
しかし、実際には仕事に対する王道とも言える考え方が学べる本だった。
文字通り「ない仕事」をどのように作っていくかについて語られている。
そのために著者は、対象を徹底的に好きになる「自分洗脳」、世の中に目新しい対象を広げるための手段としての「一人電通方式」などの手法を生み出し実践してきた。
その過程で、ない仕事を作ることは「私」を消す作業であると気づく。
「私」ではなく、「対象」がどのように世の中に受け入れられ、楽しんでもらえるかを考え続けることだという。
これはまさに、仏教修行(特に大乗仏教)そのものだ。
ただ面白がって読むだけではもったいない本だと感じた。
高岡英夫という人を知っているだろうか。
「ゆる体操」の創始者である。
私はコーチングの勉強を始めるとともに、ゆる体操を本格的に始め、さらにその奥にある身体の世界についても深く学び続けている。
素晴らしい出会いに恵まれ、とてもスムーズに、安全に、楽しく学び続けることができている。
「ゆる体操」どんな人にもおすすめですよ。
なぜこのブログをはじめたのだろうか。
別の理由がまた見えてきた。
私が発信している情報は、メインブログ、フェイスブック、メルマガ、ツイッターがある。
それぞれ役割が違うが、共通しているのはコーチングの話題であるということだ。
まず最初に、「書きたい、表現したい」という欲求がある。
そもそものその対象は渾然としたものとして現れる。
その中から、コーチングの話題にうまく接続出来そうな対象を選びだし、コーチングの理論で切り出すことで、言語化をしていく。
必然的に、その条件に合わない対象は切り捨てられていくことになる。
しかし、これらは、依然として私の中に行き場を失った形で留まり続ける。
この状態が苦しいのだ。
どうしても言語にしていかなければ、頭がパンクしそうになる、そのことに気づいたのは最近だ。
コーチングの理論は非常に多くの現象を分析することができるし、多くの問題を解決するための指針を打ち出すことができる。
それゆえ、書く話題には事欠かないため、いつのまにかコーチングとは「関係させる必要のないと思える」対象が、私の中で積もり積もることとなった。
でも、そういった対象であっても私の中から出てきた、私の一部なのだ。
無視し続けることは困難なことだ。
そういったコーチングとは関係のない対象をどう切り出すかを経由することで、かえってコーチとしての私の姿を伝えることができるかもしれない、そうも思う。
少し前に、プログラミングについて学んでいた時期がある。
といっても、本格的なものではない。
プログラミングとは何かといった概論と、HTML や CSS といった基本的な言語を用いて、プログラミングがどのように書かれていくのかを理解するといった程度だ。
わけあって(このブログもそのひとつだが)、最近はワードプレスを用いてウェブサイトを構築する作業に取り組む時間が長い。
その際、プログラミングの入り口の入り口だけでも勉強したことが役に立っていることを実感している。
一番初めにワードプレスでウェブサイトを作った時とは大違いだ。
どのようにウェブサイトが成り立っているかを、深層のところからイメージできるので、何をどうすればいいのかの判断が以前よりも楽になっている。
ここから得られる教訓は二つある。
ひとつ目、どんな勉強も、こなせばそれなりに向上する。
ふたつ目、どんな勉強も、使うことでその意義をより実感できる。