「ゆず茶の謎」

少し前に、実家からゆず茶が届いた。

ゆずを刻んでハチミツに漬けたものが、ガラスの瓶にたっぷりと入れられていた。

二日に一回くらいのペースで飲んでいる。

ある朝、ゆず茶を飲もうと思って瓶を持ち上げると、瓶の底が張り付いていたようで、「べリッ」という剥がれる感触があった。

おそらく、前回飲んだ時に、瓶の淵からこぼれたものがつたわって底へと流れ、凝固したのだろう。

そう思い、念入りに瓶底を磨き、次は絶対にこぼれないように注意してゆず茶を作った。

 

数日後、瓶を持ち上げると、再び「ベリッ」という感触があった。

もうこれを三回くらい繰り返している。

毎回こぼれないように警戒する度合いは高まっているのに、何回やっても同じ結果になる。

何かスコトーマがあるのだろうか。

『君も年収1億円プレーヤーになれる』

苫米地英人『君も年収1億円プレーヤーになれる』を読んだ。

久しぶりに読み返してみると、たくさんの発見があった。

最近はこの本以外にもビジネス書を多く読んでいる。

多くのビジネス書には共通して抱える「集団的」スコトーマがある(それが何かは科学のパラダイムに関係がある)。

それを外すためにこの部分は書かれたのだな、というような読み方が、今回の読書できた。

 

どんな本も他の本の知識と無関係に成立しているわけではない。

ということで、最近はコーチング以外の本をたくさん読むことにしている。

知識自体も増えるし、自分の持つ知識の検証を通して、その強度や確信度が高まる。

『創造と変革の志士たちへ』

堀義人「創造と変革の志士たちへ」を読んだ。

グロービズ経営大学院の学長だ。

MBAで学ぶようなフレームワークと、陽明学や松下村塾の教え、囲碁の考え方など、日本古来に見られるフレームワークを使って、リーダーの要件とその身につけ方を説いていた。

見えている課題や、市場に対する分析の仕方などは、非常に洗練されていると感じた。

しかし、現状を超えた大きなビジョンやミッション、あるいはモチベーションに関する記述などは、多くが経験則で、効果的なモデルがあるように感じなかった。

必然的に、「志、努力、情熱、執着」といったエモーショナルな表現が目立ち、全体としていささか精神論めいたものに見えた。

コーチングでは

・現状とは何か

・現状を超えるとはどういう状態か

・ゴールとは何か

・モチベーションとは何か

・モチベーションとはどうすれば生まれるのか

なとが、科学的に定義に基づいて厳密に扱う。

それは、マインドをモデル化しようとした認知科学の成果からくるものだ。

この点が多くのビジネス書に欠けているところであり、コーチングのバリューであると改めて感じた。

「妖 -あやかし-」

京極夏彦に出会ったのは、日本の新本格ミステリーに耽溺していたころだった。

異様な装丁から漂う妖気は、一作目からしてすでに尋常ではなかった。

「姑獲鳥の夏」

読み終わり、こんなすごい作家がいるのか、と驚いた。

メインキャラの「京極堂」こと中禅寺秋彦は、憑き物落としと言われる作業を行いながら、キャラクターに憑いた妖を祓い、物語の謎解きをする。

なんだかコーチに似ていませんか。

わたしたちは、その人にとって望ましくないブリーフを祓うのです。

 

京極夏彦の作品は、やたらと長いことで知られる。

だから、たくさん出版されている作品の中でも、実際には5作しか読んでいない。

すべて読み尽くすほどの気合いはまだない。

「映像に官能を感じたことはありますか」

意外だと言われることが多いのだが、映画はほとんど見ない。

あるとき、なぜ自分は映画はほとんど見ないのかという問いについて考えたことがある。

出た答えは「長いから」だった。

 

例外的に好きで何度も見た作品がある。

デヴィッド・リンチ監督の一連の作品だ。

直線的なシナリオは存在せず、不条理としかいいようのないその内容は、「悪夢」と形容されることがある。

とはいっても、通常イメージするようなホラー映画では決してない。

とにかく美しく、官能的な作品たちだ。

私は中でも「マルホランド・ドライブ」が好きだ。

おすすめ。

「気」

「気」をくばる

「気」をつける

「気」をそらす

「気」をとられる

「気」が散る

「気」をよくする

「気」を失う

 

日本語には「気」のあり方を表現する言葉がたいへん多い。

どれだけの言葉を知っているだろうか。

私は子供の頃から、こういった「気」にずいぶんと敏感な子供であったらしい。

もちろん、そのような表現で言われたことがあるわけではないが、周囲の人たちから言われたことを総合すると「気に敏感」という言い方が相応しかろうということだ。

確かに思い当たるふしはたくさんあった。

こんなに明らかに感じることを、人は感じていないようだが、どうしてだろうか。

そう思うことが非常に多かった。

 

現代文を教えるようになって、「気」に対する言葉がたくさんあることを意識するようになった。

そして、上に挙げたような「気」を表す言葉が、それぞれどんな「具合」かを積極的に感じたり、コントロールしたりするようになった。

また、自分がいま感じた体感にラベリングするとしたら、どんな言葉がふさわしいかな、などと考えたりもした。

こういうとき、言葉は便利だ。

言葉がくっついている対象は、持ち運んだり、切り離したり、入れ替えたり、消したりと、操作することが容易になるからだ。

「気」という言葉にならない(操作しづらい)対象と、言葉を紐付けておくだけで、コントロールをうまくやる糸口がみつかる。

 

ただし、言葉で表現できるものが「気」のすべてであるという勘違いをしてはいけない。

そういう勘違いは、初歩的な論理の誤謬である(実際そういう議論はよく見られるが)。

言葉で表現できる「気」はごく一部であることを分かった上で、運用上、言葉を大切にするということだ。

 

この記事が「気」がよくわからない、という人のヒントになるといいのだけど。

 

 

「パンとニンニクたっぷりちゃんぽん麺」

自宅の窓を開けると見えるくらいの距離に、天然酵母使用を売りにしているパン屋がある。

近づくとパンのいい匂いがしてくる。

 

ところが、その15メートルほど手前には、「ニンニクたっぷりちゃんぽん麺」の店がある。

そこを通過するときは、もちろん、にんにくの匂いがする。

これはこれでいい匂いではあるのだが、少々主張が強いと感じることが多い。

 

ニンニクからパンの匂いへと、ちょうど切り替わるあたりがあり、それは日によって、時間によって変わる。

その瞬間を探りつつ、二つの店を通過するのが密かな楽しみになっている。

こういう「場」の切り替わりへの鋭敏さは、コーチングの能力アップにも貢献するのではないだろうか。

「あ、この人はいま現状からゴール側へコンフォートゾーンが切り替わりった」

こんなものの見方ができるようになるかもしれない。

「コーチング」


コーチは過去のことをあまり振りかえらない。

振りかえり、苦々しいはずの記憶を思い出したとしても、たかだか「いい思い出」くらいにしか思わない。

だから、今の私を知っている人、今の私だけを見ている人からすれば、私にそのような過去があったということはピンとこないようだ。

しかし、間違いなく私も、コーチングによって人生を変えることができた、そして命を救われたはずの一人だ。

コーチングと出会っていなければ、人に誇ることのできない、ろくでもない人生を送っていた可能性は極めて高い。

 

私が自分を変えることができたのは自分のマインドの力によるものだが、それは、私の横にコーチングとコーチという存在があったおかげであることは、疑いようがない。

「私も誰かにとってのそういう存在でありたい」

常にそう考えながら生きている。

「忘れられないメタルの話」

忘れられない話というものは、誰にとってもあるものだろう。

私にとってのひとつは、メタルバンド「スリップノット(slipknot)」に関するエピソードだ。

彼らがファースト・アルバムを録音していた時のことだ。

当時のプロデューサー(ロス・ロビンソン)が、音にエモーションを込めるため、演奏するメンバー達に向かって花瓶を投げつけたそうだ。

そして大声で、

「もっとメタルだ!!!」

と叫んだらしい。

激情にかられたメンバーの演奏のおかげで、その名も『slipknot』という名盤が生まれたとのこと。

書きながら、この話のどこが面白いのかまったくわからなくなってしまった。

でも、妙に心に残っている話だ。

 

「父親」

先日、父親が63歳になった。

 

自分が63歳になったとき、どのようになっているかは想像もつかない。

しかし、いまよりももっと重要な人間になっていることは確信している。

これから63歳までの間には、たくさんの勉強と経験を積むはずだ。

その中での自分の変化・成長のことを考えると、本当に楽しみだ。

 

父親はすでに仕事はリタイアしていて、新しく自分の好きなことを始めている。

今年は、山奥にある自由になる家の台所の床をすべてはがし、張り替える作業をしていた。

すべて一人で行ったそうだ。

want to ってすごいエネルギーを生むのだなと改めて思う。