「徒手空拳」

コーチングセッションを行う際、我々コーチは何も道具を持たず、場に臨む。

自らの脳と心とその使い方だけを頼りに、クライアントをそれまでとは全く違う世界へと誘う。

もっと言えば、クライアントの持つ過去の知識の一切をも必要とせず(もちろんあればあったで参考にはするが)、その瞬間に得られる情報にのみ全集中力を注ぎ、勝負する。

そのいさぎよさ、身一つで戦う感じがとても好きだ。

まるで徒手空拳の武術家のように思える。

「デタッチメント→コミットメント」

ここ最近の大きなテーマとして、「デタッチメントからコミットメントへのシフト」というものを掲げている。

人と積極的に関わることを前提に、どうよりよい関係を築くことができるかにフォーカスしている。

そのせいか、自分自身がまた一段と変化してきたように感じる。

関係があり、存在が生まれる。

人と私の関係が変化し、私という存在が生まれる。

そう考えれば、コミットメントへとシフトチェンジした自分が変化するのは当然と言える。

 

そんなとき、何かを一緒にやってみたいと思える人間がそばにいるということはとても幸せなことだ。

それが自分のコミットメントを待っていてくれた人であればなおさら。

「睡眠時間3時間」

ここ一週間くらいは自宅にこもって仕事をしている。

仕事が楽しくて仕方がないので、ついつい長時間やってしまう。

夜も意識的にシャットしなければ、いつまでも仕事をしてしまう。

そのせいか、ここ数日だんだんと就寝時間が後ろにずれてしまっていた。

当然朝は遅くなる。

結果、いわゆる夜型生活になりつつあった。

昨日寝たのは深夜4時だった。

しかし、昨日の夜に是正すると「決めた」ので、朝は早くに目覚めた。

そして太陽の光を浴びるために、外を少し歩いた。

 

「決めた」と何気なく書いたが、このことはけっこう大切だ。

無意識に届くくらい深い確信とともに何かを「決める」と、実際に体がそのように反応する。

これは一例だが、人は思った以上に自分で「決める」ことができていない。

なんでも自分で「決める」という習慣を身につけていくべきだ。

「ダライ・ラマ法王猊下に会った話」

少し前のことになるが、ダライ・ラマ法王猊下が大阪に来られた。

大阪清風学園ではチッタマニターラ尊灌頂を授かり、高野山にて不動明王の許可灌頂を授かった。

高野山はともかくとして、大阪清風学園は徒歩圏内だ。

今年の5月には、入菩薩行論に関する講話の際、文殊菩薩の許可灌頂を授かった。

これも大阪で、当時住んでいた家から歩いていける距離だった。

 

このように書くとダライ・ラマ法王猊下が頻繁に大阪に来られているように聞こえるが、もちろんそんなことはない。

毎年来られていたわけではないし、大阪ばかりでもない。

とある人との出会いがあり、私が本格的にチベット仏教を学んでみたいと思った矢先、頻繁に来られるようになった。

そして、チベット仏教を通して、多くの出会いがあった。

こういうのを仏縁というのだろう。

来世があるのかどうかは知らないが、来世生まれ変わっても仏縁のもとにもう一度会えるという方便がチベット仏教には存在する。

死の恐怖を上手にコントロールし、生を全うできるのなら、こういう方便も使いようなのだと思う。

「抜擢される人の人脈術」

岡島悦子『抜擢される人の人脈術』を読んだ。

戦略的に人脈を形成する指南書。

「こうしたらうまくいった」という経験則だけではなく、抽象化されたフレームワークを提示している。

そのフレームワークからそれぞれの話題を提供しているので、使える知識として非常に参考になった。

おすすめ。

「新企画」

「実際的に」どこへ行っても誰の前でも、自分はプロのコーチだと堂々と言える確信も備わってきた。

なので、そういったあり方を前提に、新しい企画の準備を進めている。

東京で春までに形にしてければいいと思っている。

自分にとって楽しみでためになるものであり、かつ、関わる人にとってもためになるものであると確信している。

「恐怖 of affirmation」

ときどき怖くなることがある。

何がかといえば、アファメーションの効果である。

つい今しがた、夢中になって本を読んでいた。

「おおこれはすごいことが書いてある、ぜひ取り入れて実行しよう、そのためにこういうことをやって、、、」などと考えていた。

ふと思い返して、私のアファメーションを見返すと、その本の内容は、ついひと月ほど前に追加した項目にぴたりと一致するものだった。

アファメーションによって書き換わった無意識が勝手に情報を探し、見つけ、そして情動まで引っ張り出したのだ。

怖い、そう感じた。

その効果もさることながら、もし「望ましくない無意識」だったとしたら、人間は創造的に不幸になり続けるということだ。

このリスクと、だからこそアファメーションの技術の価値をできるだけ多くの人に伝えたいと思う。

「野菜の作る全体」

少し前のことになるが、実家から宅配便が届いた。

荷物としてはいびつなほどに横長のダンボールの中には、ぎっしりと食材が詰まっていた。

白菜、キャベツ、小松菜、長ネギ、ほうれん草、大根、じゃがいも、さつまいも、たまねぎ、ゆず、えごま油などなど。

なぜかそれらにまぎれて、黒光りする「ブラックサンダー」のお徳用パックが一袋入っていた。

「ブラックサンダー」はいいとしても、この大量の食材をどうしたものかとしばらく考えた。

考えたところで結論は目に見えている。

料理をして、食べるだけだ。

それも何日もかけて。

それから数日が経ち、いろいろな料理を作った。

今日はベーコンとクリームシチューのもとを買ってきたので、白菜と玉ねぎを一緒に煮てみようと思っている。

コーチングの概念にゲシュタルト(gestalt)というものがある。

「部分と全体が双方向的に関わり合いながら織りなすひとまとまり」のことだ。

コーチングの文脈の中では、「クライアントのゴールの世界をクライアントのひとまとまりの認識世界(=ゲシュタルト)として作り上げる」といった形で使われる。

ゲシュタルトという概念は、何もコーチングの中においてのみ有用なわけではない。

たとえば、さきほど話題に挙げた料理。

ひとつの料理も、ひとつのゲシュタルトと考えることができる。

クリームシチューというゲシュタルトの中には、白菜があり、ベーコンがあり、玉ねぎがある。

調味料や水が入っている。

クリームシチューという料理の成立過程まで含めれば、食材を切る、湯を沸かす、調味料を入れる、煮るなど各タスクも入っている。

白い色、柔らかい質感、とろけるような匂い、あたたかい口当たりといった「情報」も入っているとも考えられる。

全部あわせてひとつのゲシュタルトだし、マトリョーシカのようにゲシュタルトの中にゲシュタルトが入っている。

そう考えると、私たちはゲシュタルトに取り囲まれ、ゲシュタルトの中に生きていることがわかる。

実は、私たち自身の存在そのものもゲシュタルトだ。

「憧れの人」

先日、大阪駅の近く、丸福コーヒーで食事をとっていた。

私が注文したのはビーフシチューとコーヒーだった。

何気なく辺りを見回しすと、少し離れた席に体格のいい金髪の男性が座っていた。

松本人志だった。

私は20年来の松本人志ファンで、彼の数々の作品とともに成長してきたと言っても過言ではない。

『ごっつええ感じ』、『ガキの使いやあらへんで』、『ヴィジュアルバム』、『一人ごっつ』、『働くおっさ人形』、「モーニングビッグ対談』など、あげていけばきりがない。

とりわけ、放送作家の高須光聖とやっていたラジオ番組『放送室』は、何もすることがなく、とても暇だったころに繰り返し何度も聞いた。

あの松本人志が声をかければ振り向くくらいの距離にいる、そう思うと私の心臓の鼓動は早まった。

もう少し正確に言えば、松本人志かもしれないと思った瞬間にはもう鼓動は通常の速さではなかった。

いずれにせよ、これはおかしなことだなと感じた。

なぜなら、言い方は悪いが、向こうに座っているのは単なる「おかしな髪の色をした筋肉質の中年男性」に過ぎないわけだ。

その人がいくら笑いの天才であろうと、目の前にいるだけではわからない。

にもかかわらず、私の心臓はどきどきとしていているのだ。

なぜだろうか。

私たちの多くは、いつの間にか外側から「これが重要である」という価値観を刷り込まれている。

この価値観のことをブリーフ(belief)という。

そしてそのブリーフに基づき、思考し、行動をする。

ブリーフによって心臓の速さまで変えてしまう。

私は松本人志が重要であるというブリーフを、どこまで自らの意思で決めたのだろうか。

いままで一度もそんなこと考えたことはなかったな、そう思いながら帰宅し、動画を見てみた。

相変わらず普通ではない笑いを追求している画面の中の松本人志は、相変わらず最高に面白かった。

やはり自分にとって彼は重要な存在である、そう決めることにした。

これを読んでいる皆さんにとって無条件に重要なものは、自分で決めるというプロセスを経たものだろうか。

「疲れ」

たまに「そんなにたくさんのことをやって疲れないのですか?」と聞かれる。

疲れます。

特に、脳が疲れたと感じることは多々ある。

毎日夜寝る前になると、「1日極限まで脳を使い、たくさんのことをやって疲れたな」という実感がある。

もちろん、同時に「自分はすごいが、もっとできるはずだ」とも思う。

だから、疲れることはあります。

疲れたら、適切に休むだ。

 

疲れるということと、have to なことをやっているときの嫌な感じは本質的に違う。

だから、want to でやりたいことだけをやっているが、一方でやりすぎたら疲れる、そして疲れたら休むという拍子抜けするような真実だ。