「コーチング」


コーチは過去のことをあまり振りかえらない。

振りかえり、苦々しいはずの記憶を思い出したとしても、たかだか「いい思い出」くらいにしか思わない。

だから、今の私を知っている人、今の私だけを見ている人からすれば、私にそのような過去があったということはピンとこないようだ。

しかし、間違いなく私も、コーチングによって人生を変えることができた、そして命を救われたはずの一人だ。

コーチングと出会っていなければ、人に誇ることのできない、ろくでもない人生を送っていた可能性は極めて高い。

 

私が自分を変えることができたのは自分のマインドの力によるものだが、それは、私の横にコーチングとコーチという存在があったおかげであることは、疑いようがない。

「私も誰かにとってのそういう存在でありたい」

常にそう考えながら生きている。

「未来メーカー」

私たちコーチは、自身が未来メーカーであるとともに、未来メーカーを育てる人である。

だから、目の前の人が未来メーカーであるかどうかには、とても鼻がきく。

 

未来メーカーであればよし。

現在メインテインナー(維持する人)であればわるし。

過去コーター(caught +er :囚われた人、もちろん造語である)であれば、なおわるし。

 

しかし、こう書くと、未来、現在、過去の三箇所に自分がいるように思えるかもしれない。

しかし、実際には、すべて現在の自分の認識の仕方の話だ。

よって、これらをより正確に表現するならば、

 

現在未来メーカー

現在現在メインテインナー

現在過去コーター

 

となる。

名付けはでまかせだが、結構それらしいことは書けたのではないだろうか。

「徒手空拳」

コーチングセッションを行う際、我々コーチは何も道具を持たず、場に臨む。

自らの脳と心とその使い方だけを頼りに、クライアントをそれまでとは全く違う世界へと誘う。

もっと言えば、クライアントの持つ過去の知識の一切をも必要とせず(もちろんあればあったで参考にはするが)、その瞬間に得られる情報にのみ全集中力を注ぎ、勝負する。

そのいさぎよさ、身一つで戦う感じがとても好きだ。

まるで徒手空拳の武術家のように思える。

「睡眠時間3時間」

ここ一週間くらいは自宅にこもって仕事をしている。

仕事が楽しくて仕方がないので、ついつい長時間やってしまう。

夜も意識的にシャットしなければ、いつまでも仕事をしてしまう。

そのせいか、ここ数日だんだんと就寝時間が後ろにずれてしまっていた。

当然朝は遅くなる。

結果、いわゆる夜型生活になりつつあった。

昨日寝たのは深夜4時だった。

しかし、昨日の夜に是正すると「決めた」ので、朝は早くに目覚めた。

そして太陽の光を浴びるために、外を少し歩いた。

 

「決めた」と何気なく書いたが、このことはけっこう大切だ。

無意識に届くくらい深い確信とともに何かを「決める」と、実際に体がそのように反応する。

これは一例だが、人は思った以上に自分で「決める」ことができていない。

なんでも自分で「決める」という習慣を身につけていくべきだ。

「恐怖 of affirmation」

ときどき怖くなることがある。

何がかといえば、アファメーションの効果である。

つい今しがた、夢中になって本を読んでいた。

「おおこれはすごいことが書いてある、ぜひ取り入れて実行しよう、そのためにこういうことをやって、、、」などと考えていた。

ふと思い返して、私のアファメーションを見返すと、その本の内容は、ついひと月ほど前に追加した項目にぴたりと一致するものだった。

アファメーションによって書き換わった無意識が勝手に情報を探し、見つけ、そして情動まで引っ張り出したのだ。

怖い、そう感じた。

その効果もさることながら、もし「望ましくない無意識」だったとしたら、人間は創造的に不幸になり続けるということだ。

このリスクと、だからこそアファメーションの技術の価値をできるだけ多くの人に伝えたいと思う。

「野菜の作る全体」

少し前のことになるが、実家から宅配便が届いた。

荷物としてはいびつなほどに横長のダンボールの中には、ぎっしりと食材が詰まっていた。

白菜、キャベツ、小松菜、長ネギ、ほうれん草、大根、じゃがいも、さつまいも、たまねぎ、ゆず、えごま油などなど。

なぜかそれらにまぎれて、黒光りする「ブラックサンダー」のお徳用パックが一袋入っていた。

「ブラックサンダー」はいいとしても、この大量の食材をどうしたものかとしばらく考えた。

考えたところで結論は目に見えている。

料理をして、食べるだけだ。

それも何日もかけて。

それから数日が経ち、いろいろな料理を作った。

今日はベーコンとクリームシチューのもとを買ってきたので、白菜と玉ねぎを一緒に煮てみようと思っている。

コーチングの概念にゲシュタルト(gestalt)というものがある。

「部分と全体が双方向的に関わり合いながら織りなすひとまとまり」のことだ。

コーチングの文脈の中では、「クライアントのゴールの世界をクライアントのひとまとまりの認識世界(=ゲシュタルト)として作り上げる」といった形で使われる。

ゲシュタルトという概念は、何もコーチングの中においてのみ有用なわけではない。

たとえば、さきほど話題に挙げた料理。

ひとつの料理も、ひとつのゲシュタルトと考えることができる。

クリームシチューというゲシュタルトの中には、白菜があり、ベーコンがあり、玉ねぎがある。

調味料や水が入っている。

クリームシチューという料理の成立過程まで含めれば、食材を切る、湯を沸かす、調味料を入れる、煮るなど各タスクも入っている。

白い色、柔らかい質感、とろけるような匂い、あたたかい口当たりといった「情報」も入っているとも考えられる。

全部あわせてひとつのゲシュタルトだし、マトリョーシカのようにゲシュタルトの中にゲシュタルトが入っている。

そう考えると、私たちはゲシュタルトに取り囲まれ、ゲシュタルトの中に生きていることがわかる。

実は、私たち自身の存在そのものもゲシュタルトだ。

「憧れの人」

先日、大阪駅の近く、丸福コーヒーで食事をとっていた。

私が注文したのはビーフシチューとコーヒーだった。

何気なく辺りを見回しすと、少し離れた席に体格のいい金髪の男性が座っていた。

松本人志だった。

私は20年来の松本人志ファンで、彼の数々の作品とともに成長してきたと言っても過言ではない。

『ごっつええ感じ』、『ガキの使いやあらへんで』、『ヴィジュアルバム』、『一人ごっつ』、『働くおっさ人形』、「モーニングビッグ対談』など、あげていけばきりがない。

とりわけ、放送作家の高須光聖とやっていたラジオ番組『放送室』は、何もすることがなく、とても暇だったころに繰り返し何度も聞いた。

あの松本人志が声をかければ振り向くくらいの距離にいる、そう思うと私の心臓の鼓動は早まった。

もう少し正確に言えば、松本人志かもしれないと思った瞬間にはもう鼓動は通常の速さではなかった。

いずれにせよ、これはおかしなことだなと感じた。

なぜなら、言い方は悪いが、向こうに座っているのは単なる「おかしな髪の色をした筋肉質の中年男性」に過ぎないわけだ。

その人がいくら笑いの天才であろうと、目の前にいるだけではわからない。

にもかかわらず、私の心臓はどきどきとしていているのだ。

なぜだろうか。

私たちの多くは、いつの間にか外側から「これが重要である」という価値観を刷り込まれている。

この価値観のことをブリーフ(belief)という。

そしてそのブリーフに基づき、思考し、行動をする。

ブリーフによって心臓の速さまで変えてしまう。

私は松本人志が重要であるというブリーフを、どこまで自らの意思で決めたのだろうか。

いままで一度もそんなこと考えたことはなかったな、そう思いながら帰宅し、動画を見てみた。

相変わらず普通ではない笑いを追求している画面の中の松本人志は、相変わらず最高に面白かった。

やはり自分にとって彼は重要な存在である、そう決めることにした。

これを読んでいる皆さんにとって無条件に重要なものは、自分で決めるというプロセスを経たものだろうか。

「同調圧力」

同調圧力が嫌いである。

いつの間にか出来上がっていることが多いが、組織(コーポレート)があれば同調圧力が生じる。

この場合の組織とは、会社組織に限らない。

あらゆる集団という意味だ。

 

なぜ同調圧力が嫌いかといえば、それは卑怯だからだ。

卑怯の定義はいろいろとあるが、一貫性がないということがひとつある。

言語で明言されているルールであれば、それは同調圧力でもなんでもない。

しかし、明言されていないものの確かにあるルール(のようなもの)によって、暗黙のうちにそれを守ることを迫るということがある。

暗黙のものに対して一貫性は持たせようがない。

なぜならそれは、状況にあわせて都合よく変化させうるからだ。

これをうまく利用して自分の利益のみを最大化する人は、間違いなく卑怯な人だろう。

 

私たちコーチは、役割上、非言語情報の扱いに長けている必要がある。

それはクライアントのマインドの変化を促すために必要なものだ。

同時に、同調圧力をはじめとする、非言語に関する世の中のネガティブな側面に対しても、しっかりと観察し、良い状況を生み出すよう働きかけていきたいものだと思う。

そのためには、言語運用に長ける必要がある。

言語こそが非言語の曖昧さ、不透明さを是正する(苦肉の)手段だからだ。

 

やはり、非言語は言語とセットになって学んでいくべきものだと思う。

「マーケティング」

いまでこそコーチとして全国に関わってくれる人がいるが、1年半前はまったく知名度ゼロのところからのスタートだった。

どうやって自分のことを知ってもらおうかなと考え、当時はやりはじめていたコンテンツマーケティングを学びにいった。

インターネット上で質の高いコンテンツを提供し、それをもとにラポールを形成し、自分の提供しているものに興味を持ってもらうという手法だ。

幸い文章を書くのは大好きだったので、ブログ記事というコンテンツを作ることは、問題なく始めることができた。

もちろんそれに伴い、ワードプレスの設定の仕方やSEO対策などたくさんのことを勉強した。

いまでこそワードプレスで情報発信するのは当たり前になっているが(コーチも含めて)、当時はそういう人は少なかったように記憶している。

ウェブ上でのマーケティングについて学んだものの、それは個人レベルに限った話だ。

もっと大きな規模、つまりマスマーケティングに関しては、わからないところも多い。

興味はあるので、マーケティングをもっと学びたいという気持ちもある。

「理由2」

なぜこのブログをはじめたのだろうか。

別の理由がまた見えてきた。

 

私が発信している情報は、メインブログ、フェイスブック、メルマガ、ツイッターがある。

それぞれ役割が違うが、共通しているのはコーチングの話題であるということだ。

 

まず最初に、「書きたい、表現したい」という欲求がある。

そもそものその対象は渾然としたものとして現れる。

その中から、コーチングの話題にうまく接続出来そうな対象を選びだし、コーチングの理論で切り出すことで、言語化をしていく。

必然的に、その条件に合わない対象は切り捨てられていくことになる。

しかし、これらは、依然として私の中に行き場を失った形で留まり続ける。

この状態が苦しいのだ。

どうしても言語にしていかなければ、頭がパンクしそうになる、そのことに気づいたのは最近だ。

 

コーチングの理論は非常に多くの現象を分析することができるし、多くの問題を解決するための指針を打ち出すことができる。

それゆえ、書く話題には事欠かないため、いつのまにかコーチングとは「関係させる必要のないと思える」対象が、私の中で積もり積もることとなった。

でも、そういった対象であっても私の中から出てきた、私の一部なのだ。

無視し続けることは困難なことだ。

 

そういったコーチングとは関係のない対象をどう切り出すかを経由することで、かえってコーチとしての私の姿を伝えることができるかもしれない、そうも思う。