「学び」

学びは人から得るものだ。

よって、一番良い学びは、学びにとって理想的な人間関係の中で生じる。

学びの生じる人間関係とは、教えたいと思う先生と、教わりたいという生徒が出会うこと、これが前提だ。

そして、学びの生じる理想的な人間関係とは、「この人に」教えたいと思う先生と、「この人から」教わりたいという生徒が出会うことだ。

こういう関係を築くことができれば、「情動記憶からくる自我(重要性評価関数)が生み出すスコトーマ」の壁を飛び越えることができる。

なぜなら、「この人に与えられる自分になりたい」「この人から受け取れる自分になりたい」という、それまでにはなかった重要性がそこにはあるからだ。

「身体の運用技術」

昔、空手と合気道をやっていたことがある。

いずれも短い時間でやめてしまった。

後年になって、なぜそのとき続けられなかったかがわかるようになった。

私は、より合理的な、より理想的な身体の運用技術があることを直感していた。

そして、私が参加した道場では、そのことが上手に表現されていると思えなかったのだ。

もちろんこれは、上記の武術すべてにおいて、望ましい身体の運用技術が提供されていないという意味ではない。

少なくとも、私が参加した道場ではそうだと感じたという話だ。

 

そういえば、モデルをやっていた際にも、同様の経験があったた。

モデルの専門技術としてウォーキングがある。

そして、歩く技術を教えるスタジオがあり、専門家がいる。

何度かそういう専門家と関わったり、ウォーキングを習うことを推薦された経験がある。

しかし、どうしてもその人たちからウォーキングを習うことに対し、食指が動かなかった。

今思えば、武術の件と同様に、その人たちと関わっても身体の本質的な正しい運用方法が学べると思えなかったのだろう。

 

いまこのような振り返りができるのは、身体の正しい運用技術の体系に出会い、学ぶことができているからだ。

さまざまな「これは違う、これも違う」という体験があったからこそ、出会うことができたのかもしれない。

「未来メーカー」

私たちコーチは、自身が未来メーカーであるとともに、未来メーカーを育てる人である。

だから、目の前の人が未来メーカーであるかどうかには、とても鼻がきく。

 

未来メーカーであればよし。

現在メインテインナー(維持する人)であればわるし。

過去コーター(caught +er :囚われた人、もちろん造語である)であれば、なおわるし。

 

しかし、こう書くと、未来、現在、過去の三箇所に自分がいるように思えるかもしれない。

しかし、実際には、すべて現在の自分の認識の仕方の話だ。

よって、これらをより正確に表現するならば、

 

現在未来メーカー

現在現在メインテインナー

現在過去コーター

 

となる。

名付けはでまかせだが、結構それらしいことは書けたのではないだろうか。

「グレート・ギャツビー」

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』が好きだ。

完全に美しい物語だからだ。

美しい話であるという意味ではない。

物語が持つ、多次元的な構造として完全に美しいという意味だ。

もちろんそれは、翻訳した村上春樹の力量に依るところが大きい。

英語の原著にチャレンジしたこともある。

古風で複雑な英語表現(だそう)なので、私の英語力の範疇を大きくはみ出していると感じた。

しかし、なぜだかわからないが、それが美しい物語であるということは伝わってきた。

それは、私が「この小説は美しい物語である」と決めているからかもしれない。

「徒手空拳」

コーチングセッションを行う際、我々コーチは何も道具を持たず、場に臨む。

自らの脳と心とその使い方だけを頼りに、クライアントをそれまでとは全く違う世界へと誘う。

もっと言えば、クライアントの持つ過去の知識の一切をも必要とせず(もちろんあればあったで参考にはするが)、その瞬間に得られる情報にのみ全集中力を注ぎ、勝負する。

そのいさぎよさ、身一つで戦う感じがとても好きだ。

まるで徒手空拳の武術家のように思える。

「デタッチメント→コミットメント」

ここ最近の大きなテーマとして、「デタッチメントからコミットメントへのシフト」というものを掲げている。

人と積極的に関わることを前提に、どうよりよい関係を築くことができるかにフォーカスしている。

そのせいか、自分自身がまた一段と変化してきたように感じる。

関係があり、存在が生まれる。

人と私の関係が変化し、私という存在が生まれる。

そう考えれば、コミットメントへとシフトチェンジした自分が変化するのは当然と言える。

 

そんなとき、何かを一緒にやってみたいと思える人間がそばにいるということはとても幸せなことだ。

それが自分のコミットメントを待っていてくれた人であればなおさら。

「睡眠時間3時間」

ここ一週間くらいは自宅にこもって仕事をしている。

仕事が楽しくて仕方がないので、ついつい長時間やってしまう。

夜も意識的にシャットしなければ、いつまでも仕事をしてしまう。

そのせいか、ここ数日だんだんと就寝時間が後ろにずれてしまっていた。

当然朝は遅くなる。

結果、いわゆる夜型生活になりつつあった。

昨日寝たのは深夜4時だった。

しかし、昨日の夜に是正すると「決めた」ので、朝は早くに目覚めた。

そして太陽の光を浴びるために、外を少し歩いた。

 

「決めた」と何気なく書いたが、このことはけっこう大切だ。

無意識に届くくらい深い確信とともに何かを「決める」と、実際に体がそのように反応する。

これは一例だが、人は思った以上に自分で「決める」ことができていない。

なんでも自分で「決める」という習慣を身につけていくべきだ。

「ダライ・ラマ法王猊下に会った話」

少し前のことになるが、ダライ・ラマ法王猊下が大阪に来られた。

大阪清風学園ではチッタマニターラ尊灌頂を授かり、高野山にて不動明王の許可灌頂を授かった。

高野山はともかくとして、大阪清風学園は徒歩圏内だ。

今年の5月には、入菩薩行論に関する講話の際、文殊菩薩の許可灌頂を授かった。

これも大阪で、当時住んでいた家から歩いていける距離だった。

 

このように書くとダライ・ラマ法王猊下が頻繁に大阪に来られているように聞こえるが、もちろんそんなことはない。

毎年来られていたわけではないし、大阪ばかりでもない。

とある人との出会いがあり、私が本格的にチベット仏教を学んでみたいと思った矢先、頻繁に来られるようになった。

そして、チベット仏教を通して、多くの出会いがあった。

こういうのを仏縁というのだろう。

来世があるのかどうかは知らないが、来世生まれ変わっても仏縁のもとにもう一度会えるという方便がチベット仏教には存在する。

死の恐怖を上手にコントロールし、生を全うできるのなら、こういう方便も使いようなのだと思う。

「抜擢される人の人脈術」

岡島悦子『抜擢される人の人脈術』を読んだ。

戦略的に人脈を形成する指南書。

「こうしたらうまくいった」という経験則だけではなく、抽象化されたフレームワークを提示している。

そのフレームワークからそれぞれの話題を提供しているので、使える知識として非常に参考になった。

おすすめ。

「新企画」

「実際的に」どこへ行っても誰の前でも、自分はプロのコーチだと堂々と言える確信も備わってきた。

なので、そういったあり方を前提に、新しい企画の準備を進めている。

東京で春までに形にしてければいいと思っている。

自分にとって楽しみでためになるものであり、かつ、関わる人にとってもためになるものであると確信している。