「映像に官能を感じたことはありますか」

意外だと言われることが多いのだが、映画はほとんど見ない。

あるとき、なぜ自分は映画はほとんど見ないのかという問いについて考えたことがある。

出た答えは「長いから」だった。

 

例外的に好きで何度も見た作品がある。

デヴィッド・リンチ監督の一連の作品だ。

直線的なシナリオは存在せず、不条理としかいいようのないその内容は、「悪夢」と形容されることがある。

とはいっても、通常イメージするようなホラー映画では決してない。

とにかく美しく、官能的な作品たちだ。

私は中でも「マルホランド・ドライブ」が好きだ。

おすすめ。

「気」

「気」をくばる

「気」をつける

「気」をそらす

「気」をとられる

「気」が散る

「気」をよくする

「気」を失う

 

日本語には「気」のあり方を表現する言葉がたいへん多い。

どれだけの言葉を知っているだろうか。

私は子供の頃から、こういった「気」にずいぶんと敏感な子供であったらしい。

もちろん、そのような表現で言われたことがあるわけではないが、周囲の人たちから言われたことを総合すると「気に敏感」という言い方が相応しかろうということだ。

確かに思い当たるふしはたくさんあった。

こんなに明らかに感じることを、人は感じていないようだが、どうしてだろうか。

そう思うことが非常に多かった。

 

現代文を教えるようになって、「気」に対する言葉がたくさんあることを意識するようになった。

そして、上に挙げたような「気」を表す言葉が、それぞれどんな「具合」かを積極的に感じたり、コントロールしたりするようになった。

また、自分がいま感じた体感にラベリングするとしたら、どんな言葉がふさわしいかな、などと考えたりもした。

こういうとき、言葉は便利だ。

言葉がくっついている対象は、持ち運んだり、切り離したり、入れ替えたり、消したりと、操作することが容易になるからだ。

「気」という言葉にならない(操作しづらい)対象と、言葉を紐付けておくだけで、コントロールをうまくやる糸口がみつかる。

 

ただし、言葉で表現できるものが「気」のすべてであるという勘違いをしてはいけない。

そういう勘違いは、初歩的な論理の誤謬である(実際そういう議論はよく見られるが)。

言葉で表現できる「気」はごく一部であることを分かった上で、運用上、言葉を大切にするということだ。

 

この記事が「気」がよくわからない、という人のヒントになるといいのだけど。

 

 

「パンとニンニクたっぷりちゃんぽん麺」

自宅の窓を開けると見えるくらいの距離に、天然酵母使用を売りにしているパン屋がある。

近づくとパンのいい匂いがしてくる。

 

ところが、その15メートルほど手前には、「ニンニクたっぷりちゃんぽん麺」の店がある。

そこを通過するときは、もちろん、にんにくの匂いがする。

これはこれでいい匂いではあるのだが、少々主張が強いと感じることが多い。

 

ニンニクからパンの匂いへと、ちょうど切り替わるあたりがあり、それは日によって、時間によって変わる。

その瞬間を探りつつ、二つの店を通過するのが密かな楽しみになっている。

こういう「場」の切り替わりへの鋭敏さは、コーチングの能力アップにも貢献するのではないだろうか。

「あ、この人はいま現状からゴール側へコンフォートゾーンが切り替わりった」

こんなものの見方ができるようになるかもしれない。

「コーチング」


コーチは過去のことをあまり振りかえらない。

振りかえり、苦々しいはずの記憶を思い出したとしても、たかだか「いい思い出」くらいにしか思わない。

だから、今の私を知っている人、今の私だけを見ている人からすれば、私にそのような過去があったということはピンとこないようだ。

しかし、間違いなく私も、コーチングによって人生を変えることができた、そして命を救われたはずの一人だ。

コーチングと出会っていなければ、人に誇ることのできない、ろくでもない人生を送っていた可能性は極めて高い。

 

私が自分を変えることができたのは自分のマインドの力によるものだが、それは、私の横にコーチングとコーチという存在があったおかげであることは、疑いようがない。

「私も誰かにとってのそういう存在でありたい」

常にそう考えながら生きている。

「忘れられないメタルの話」

忘れられない話というものは、誰にとってもあるものだろう。

私にとってのひとつは、メタルバンド「スリップノット(slipknot)」に関するエピソードだ。

彼らがファースト・アルバムを録音していた時のことだ。

当時のプロデューサー(ロス・ロビンソン)が、音にエモーションを込めるため、演奏するメンバー達に向かって花瓶を投げつけたそうだ。

そして大声で、

「もっとメタルだ!!!」

と叫んだらしい。

激情にかられたメンバーの演奏のおかげで、その名も『slipknot』という名盤が生まれたとのこと。

書きながら、この話のどこが面白いのかまったくわからなくなってしまった。

でも、妙に心に残っている話だ。

 

「父親」

先日、父親が63歳になった。

 

自分が63歳になったとき、どのようになっているかは想像もつかない。

しかし、いまよりももっと重要な人間になっていることは確信している。

これから63歳までの間には、たくさんの勉強と経験を積むはずだ。

その中での自分の変化・成長のことを考えると、本当に楽しみだ。

 

父親はすでに仕事はリタイアしていて、新しく自分の好きなことを始めている。

今年は、山奥にある自由になる家の台所の床をすべてはがし、張り替える作業をしていた。

すべて一人で行ったそうだ。

want to ってすごいエネルギーを生むのだなと改めて思う。

「学び」

学びは人から得るものだ。

よって、一番良い学びは、学びにとって理想的な人間関係の中で生じる。

学びの生じる人間関係とは、教えたいと思う先生と、教わりたいという生徒が出会うこと、これが前提だ。

そして、学びの生じる理想的な人間関係とは、「この人に」教えたいと思う先生と、「この人から」教わりたいという生徒が出会うことだ。

こういう関係を築くことができれば、「情動記憶からくる自我(重要性評価関数)が生み出すスコトーマ」の壁を飛び越えることができる。

なぜなら、「この人に与えられる自分になりたい」「この人から受け取れる自分になりたい」という、それまでにはなかった重要性がそこにはあるからだ。

「身体の運用技術」

昔、空手と合気道をやっていたことがある。

いずれも短い時間でやめてしまった。

後年になって、なぜそのとき続けられなかったかがわかるようになった。

私は、より合理的な、より理想的な身体の運用技術があることを直感していた。

そして、私が参加した道場では、そのことが上手に表現されていると思えなかったのだ。

もちろんこれは、上記の武術すべてにおいて、望ましい身体の運用技術が提供されていないという意味ではない。

少なくとも、私が参加した道場ではそうだと感じたという話だ。

 

そういえば、モデルをやっていた際にも、同様の経験があったた。

モデルの専門技術としてウォーキングがある。

そして、歩く技術を教えるスタジオがあり、専門家がいる。

何度かそういう専門家と関わったり、ウォーキングを習うことを推薦された経験がある。

しかし、どうしてもその人たちからウォーキングを習うことに対し、食指が動かなかった。

今思えば、武術の件と同様に、その人たちと関わっても身体の本質的な正しい運用方法が学べると思えなかったのだろう。

 

いまこのような振り返りができるのは、身体の正しい運用技術の体系に出会い、学ぶことができているからだ。

さまざまな「これは違う、これも違う」という体験があったからこそ、出会うことができたのかもしれない。

「未来メーカー」

私たちコーチは、自身が未来メーカーであるとともに、未来メーカーを育てる人である。

だから、目の前の人が未来メーカーであるかどうかには、とても鼻がきく。

 

未来メーカーであればよし。

現在メインテインナー(維持する人)であればわるし。

過去コーター(caught +er :囚われた人、もちろん造語である)であれば、なおわるし。

 

しかし、こう書くと、未来、現在、過去の三箇所に自分がいるように思えるかもしれない。

しかし、実際には、すべて現在の自分の認識の仕方の話だ。

よって、これらをより正確に表現するならば、

 

現在未来メーカー

現在現在メインテインナー

現在過去コーター

 

となる。

名付けはでまかせだが、結構それらしいことは書けたのではないだろうか。

「グレート・ギャツビー」

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』が好きだ。

完全に美しい物語だからだ。

美しい話であるという意味ではない。

物語が持つ、多次元的な構造として完全に美しいという意味だ。

もちろんそれは、翻訳した村上春樹の力量に依るところが大きい。

英語の原著にチャレンジしたこともある。

古風で複雑な英語表現(だそう)なので、私の英語力の範疇を大きくはみ出していると感じた。

しかし、なぜだかわからないが、それが美しい物語であるということは伝わってきた。

それは、私が「この小説は美しい物語である」と決めているからかもしれない。