「コーチングのチェックポイント」

ゴールを設定し、それまでと違ったものが見えるようになり、エフィカシーを高め、現実に行動をはじめる。

コーチングのサイクルをモデル化すると、こういった表現ができる。

さて、このサイクルがうまく機能しているかどうかをどうやって確かめるべきか。

アプローチはふたつある。

 

ひとつは、コーチのような知識・技術を持った第三者に検証してもらうことだ。

熟練したコーチであれば、機能しているかどうかをすぐに把握することができる。

万が一、機能不全を起こしていれば、どこに原因があるのかを見破り、その上で適切に導いてくれるはずだ。

この方法の欠点は、そういったことが可能な第三者がそばにいなければならないということだ。

そんなに簡単なことではないだろう。

 

もうひとつは、自分自身で気付くことだ。

しかし、コーチングのサイクル全体を眺め、機能しているかどうかを判断することは、なかなか難しい。

自分のことだからなおさらだ。

どうすればいいのだろうか。

チェックポイントを持っておくといい。

この点を見れば、機能しているかどうかがわかるというチェックポイントだ。

ひとつそのポイントを紹介すると、「ドリームキラーが登場してるかどうか」だ。

上記のコーチングのサイクルが適切に機能していれば、ドリームキラーが現れている可能性が高い。

人間のマインドの構造的な問題に関わるので、そうなる可能性は極めて高い。

だから、ドリームキラーが登場していれば、コーチングのサイクルはある程度機能しているはずだ。

しかし、もしドリームキラーが登場していなければ、そうでない可能性がある。

その場合は、サイクルの中にどこか不備があると考える。

適切にゴールが設定されているのか、エフィカシーが高まっていないのか、行動をしていないのかなどだ。

もちろん、ゴールを直接的に他人に言っていないからドリームキラーが現れていないという場合もありえる。

なので、絶対的なものではないが、ひとつのチェックポイントとして携えておくといいだろう。

「具体性」

最近は、具体的なことに強い興味を持っている。

これは人生初のことかもしれない。

もちろん、以前も具体的な知識や体験というものをそれなりに大切にしていたつもりだ。

しかし、あくまで関心の中心は、知識を動かす論理であり、体験を抽象化したプリンシプルであった。

より汎用性の高い論理やプリンシプルを体得することに注力を注いだ。

論理やプリンシプルをある程度運用することができるようになった今、さらに次のステップ、つまりその運用によってもっと世の中に対して好影響を与えていくためには、当の世の中のことをもっと知らなくてはならないと感じている。

論理やプリンシプルだけでも、世の中の事象に対してそれらしい結論や解決策を示すことができるのかもしれない。

しかしそれは、現実をあまり知らない上で述べられた、いささか空理空論めいたものになる。

それならばまだいいが、理屈が先行した的外れなことだって言いかねない。

私がほしいのは、「それらしい結論や解決策」ではなく、「しっかりとした結論と実際の解決」なのだ。

そのためには、具体的な知識をたくさん得る必要がある。

それこそ大量に、ものすごく大量に得る必要がある。

そうして、論理やプリンシプルに、血を通わせ、肉を持たせるべきだと考えている。

 

そんなことを考えながら本や新聞、雑誌を読んでいると、まだまだ知らないことが多いと反省させられる。

もっと勉強せねばと素直に思う。

「発・菩提心」

ダライ・ラマ法王猊下が日本に来られた際、会いに行ける場があるのなら、なるべく参加できるようにしている。

理由は単純で、私は猊下のことが大好きだからだ。

 

今年の5月に、文殊菩薩の許可灌頂をいただいた。

それに先立つ講話では、シャーンティデーヴァの書いた『入菩薩行論』というテクストを解説するものだった。

このテクストは、先月のチッタマニターラの灌頂においても解説をされたので、猊下にとって非常に重要性の高いものであるようだ。

 

その中で解かれる教えはいろいろとあるが、最も重要なもののひとつは「発菩提心(ほつぼだいしん)(発心)」だ。

菩提心とは、「衆生(しゅじょう)を悟りへと誘う心」のことだ。

そしてそれが「発(ほっ)」するのだから、発菩提心とは、「衆生を悟りへと誘う心が生まれること」だ。

もちろん、発菩提心の時点で、そうなっているはずではない。

ということは、その時点では、あくまでそうなるという宣言なわけだ。

言い換えれば、ゴール設定だ。

しかも注意してほしいのは、このときの衆生とは、人間だけではなく、生きとし生けるものすべてが含まれた概念である点だ。

とてつもなく大きな、まさに現状を大きく超えたゴール設定だと言える。

 

だからチベット仏教とコーチングがまったく同じものだと言いたいわけではない。

明らかに違う点だってたくさんある。

しかし、根底で通づるところがあるのも確かだ。

軽音楽で例えるなら、アレンジはまったく違うし、歌っている人もまったく違うのだが、根音はまったく同じで、コード進行は酷似している、といった感じだろうか。

 

まあ、難しいことはわからずとも、機会があれば猊下に会いにいかれることをおすすめする。

あれほど高潔で、あれほどチャーミングな人もそういないのではないだろうか。

「読書歴」

ここ数日に読んだ本で、覚えているものをメモしておく。

 

ジグ・ジグラー『世界一シンプルな営業の教科書』

苫米地英人『営業は洗脳』

『Wedge 12月号』

カーマイン・ガロ『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』

池谷義紀『Webサイト構築&運営がわかる本』

 

「仕事の能率2」

昨日、寝る間際に思いついた説明の切り口で書いてみよう。

まず、タスク(やるべきこと)が一つあったとする。

たとえば、「セミナーの資料作成」としよう。

このタスクの「強さ」を測定してみる。

このときの基準はなんでもいい。

私は、「弱い」「やや弱い」「ふつう」「強い」「超強い」みたいに分けている。

セミナーの資料作成は、「強い」くらいだろうか。

このブログの記事は、私の中では強さ「やや弱い」だ。

だから、だいたい一呼吸で書ききって、すぐにアップしてしまう。

ツイッターのひとつのつぶやきは、「弱い」だ。

もう一方のブログの記事は、強さ「超強い」だ。

一記事あたり、このブログの20倍くらいのエネルギーを注いでいる気がする。

この把握によって、だいたいそのタスクにどのくらいのエネルギーを注ぐべきか掴む。

 

次に、そのタスクをバラバラにしてみる。

このブログはバラバラにする必要はない。

なぜなら、「やや弱い」だからだ。

しかしセミナーの資料作成だと、「強い」なので、5〜10くらいに分割する必要がある。

では、10としておこう。

具体的には、「プランを練る」「さらに練る」「書き出してみる」「整理する」「細かい部分を調整する」「調べ物をする」「スライドを作る」「予行演習をしてみる」「フィードバックをもらう」「紙資料にする」、、、などだ。

これらの最適な順番を前提として、一日にストレスなくできる量を見極め、期限から逆算して配置をする。

このときの、「ストレスなくできる量」というのが重要だ。

まず、人間はおそらく同じタスクを続けてやるのはけっこうすぐに限界がくる。

他のことに切り替えれば、平気になるのだが、同じことをやり続ければ疲労が極端に増すようだ。

なので、そういう状態にならない程度の量を調整する必要がある。

また、意識的活動でのみタスクを捉えるのではなく、無意識が最適化するのを待つという意図もあると理解すべきだ。

たとえば、先ほどの霊ならば、「プランを練る」から「さらに練る」までの間に、睡眠を含むある一定の時間が挟み込まれていないと進めない。

何かはわからないが、無意識の中での作業を経ないと、仕上がらないものがあるということだ。

このように、タスクを細切れにして、もっとも疲労が少なく、もっともスピーディーに終わるような設計をする。

そしてあとは、それに基づいて、毎日少しづつ進める。

調子が良いときにこそ、やりすぎないように注意する。

 

このようなタスクに対する設定をたくさん作っていく。

私は、いま数えてみたら、意識的に用意したそういったものが大小関わらず常時20〜30くらい(気がついていないものや、無意識のうちに出来上がったものを含めるともっとあると思う)動いている。

通常、意識の上ではひとつの作業をやっているわけだが、その裏側では、膨大な量の処理が無意識下で動いているということになる。

無意識はほとんど無限に近いほどの能力があるわけだから、この方向でいけば、もっともっと生産性をあげることができると思う。

 

基本的には、以前書いた「仕事の能率」と同じような内容だが、もう少し整理が進んだので、いまいちど書いてみた。

ちなみに、この記事の強さは「ふつう」くらいで、本来なら分けて書くべきだが、一呼吸で書いた。

なので、それに伴う疲労をリカバーするために、このあとの(予定外の)タスクが自動的に決定した。

コーヒーブレイクだ。

「too much」

先日、仕事の能率という記事を書いた。

とても評判が良かった。

 

「仕事の能率」

 

最近の私のテーマとして、どれだけ生産性を上げるか、どれだけたくさんのことを質を落とさず、行うことができるかというものがある。

なぜなら、やりたいことがありすぎるからだ。

読みたい本は無限にあるし、勉強したい分野だってまだまだある。

音楽だってそうだし、本当はじっくり映画を観たりしたい(映画は五感すべてをひとつの作業に長時間取られるので、敬遠している)。

瞑想や気功など身体開発ももっと時間をとるべきだと感じている。

今あげたのは、室内で一人でやることだが、複数の人間でなければ成り立たないことや、外に出ていくことまで含めると、ほんとうにきりがない。

人生が何回あっても足りないくらいだ。

 

なので結局は、優先順位と、生産性にかかってくる。

すべてを行うことはできないにしても、相当の違いがあるはずだ。

最近は、様々な知識が融合して、自分なりのスタイルが見えてきたとこでもある。

方法に関しては、別の項で説明する。

「行動の源」

行動(behavior)がある。

たとえば、「人前でギターをひくのをやめておく」。

これは行動だ。

 

では行動がどのように生まれるか教えよう。

行動は、セルフイメージ(self-image)から生まれる。

セルフイメージとは、自分で自分のことをどう思っているかのことだ。

「自分はギターが下手くそだ」などだ。

 

では、セルフイメージはどのように形成されるのか。

セルフイメージは、セルフトーク(self-talk)から生まれる。

セルフトークとは、自分にかける言葉のことだ。

「(失敗して)またやっちゃった、やっぱり自分はギターが下手だなあ」などだ。

 

まとめよう。

 

セルフトーク

セルフイメージ

行動

 

となる。

多くの人は、行動を変えたいわけだ。

そして、無理やり行動を変えて、つらい思いをしてしまう。

無理やり人前でギターを弾こうとする。

そして嫌になってやめる。

 

私たちの提供するコーチングは、そういったやり方を採用しない。

効果的な方法をとる。

まずは、セルフトークを変える。

「私はギターを上手に弾く人間だ」

こう自分に語りかけよう。

「コンフォートゾーンを広げる」

コンフォートゾーンが広がる(を移動させる)ことがゴール達成には不可欠だ。

どの方向へと広げるかはゴールが決めるわけだが、とにかく広げていく必要がある。

そのためには、ルー・タイスが言っているように、アファメーションのプロセスを用いる。

あらかじめ、マインドの中でコンフォートゾーンを広げていくというアプローチだ。

これは極めて有効だ。

有効であり、安全だ。

 

一方で取り組みたいのが、コンフォートゾーンになっておくべき、それでいて不慣れな場所にさっさと行ってしまうということだ。

これは、肉体が拒絶反応を起こす(緊張したり、嫌な気分になったり、行かなくてもいい理由を思い浮かべたり)ので、少し抵抗がある。

しかし、その抵抗を大きなゴールから解釈すれば、嬉しいこととして処理することは可能だ。

実際にそういう行動をとれば、コンフォートゾーンは広がる。

 

私も日々、不慣れなところへと入っていくチャンスをうかがいながら生活している。

そして見つけたら、なるべく入ってみることにしている。

 

『教育のプロが教える、子どもを信じることができる親のメンタリティ』

怒りに振り回されるとか、子供を信じてあげることができなくて辛いとか、感情の問題はたくさんある。

その際には、問題の側に働きかけることを止めてみるといいだろう。

怒りを引き起こした嫌な出来事を変えようとするとか、信じることのできない子供の行動を矯正するということを止めてみるということだ。

結局、そういった問題の側は単なるきっかけに過ぎず、反応しているのは自分の心だからだ。

外側の問題は論理的に解決を促しつつ、こだわり過ぎないほうがいい。

自分の心の側のスコトーマが強化されてしまう。

まずは自分の心に目を向けて、分析をしてみる。

そうすることで、かえって本質的な解決が見出せるだろう。

一般的に言えばそういう主張だが、それを「子供を信じる」という状況の中で伝えようと書いた記事がこちらだ。

私たちはルー・タイスが残してくれた、

『All meaningful, lasting growth and change starts first on the inside and then works its way out.』

というプリンシプルに、何度も立ち返る必要がある。

 

教育のプロが教える、子どもを信じることができる親のメンタリティ

「渋谷系」

最近のマイブームは、渋谷系の音楽だ。

渋谷系とは90年代に流行した、渋谷の特定地域を発祥とする音楽群の総称だ。

ジャンルとしてというよりも、一つのムーブメントとしての呼称であると考えたほうがよいようだ。

その証拠に、渋谷系に内包されるジャンルは実に多岐に渡っている。

とはいうものの、一般的には、フリッパーズギターなどのネオアコのイメージだろう。

 

実は私は、90年代にはあまり渋谷系の音楽を好んで聴いてはいなかった。

そのころも音楽は好きだったが、どちらかといえば、パンクやハードコア、メロコア、スカといったストレートでアッパーな音楽が好きだった。

文学や哲学、アニメなどは、比較的と「内にこもる」ような作品が好きだったのだが、音楽はそうではなかった。

過剰で、エネルギッシュで、いろいろなものを吹き飛ばしてくれるようなサウンドに心惹かれていた。

 

とはいうものの、ビッグヒットを飛ばした小沢健二(フリッパーズギターの片割れ、もう一人は小山田圭吾)の活躍や、あるいは、音楽以外のカルチャー全般の中にちらちらと登場する渋谷系というワードなどを通し、なんとなく気になっていたのは事実だ。

そういう意味では、隣のクラスの気になる女の子みたいな位置付けだった。

そして、声をかけずに卒業してしまった。

 

なぜ今になって渋谷系の音楽を掘り始めたのかは、よくわからない。

たぶんここ数年の世の中の全体が、90年代のリバイバルみたいな方向へ向かっているからだと思う(実際、ファッションの今シーズンのトレンドは明らかに90年代を反映している)。

理由はともかくとして、いま私が90年代の音楽に親しむ感覚には、なんともいえないものがある。

ずっと心に引っかかっていたつかえがとれるようなカタルシスもあるし、自分が成長し、大人になったという感慨もある。

体験すべきだったことを永遠に損なってしまい、それでもなんとか残骸をかき集めて復元しようとしている、そんな感覚もある。

 

そしてまた同時に、そういった種々のノスタルジーを超克してしまいたいという欲求もある。

これは私が、コーチという特殊な職業に従事しているからかもしれない。