いついかなるときも鍛錬をする必要がある。
なぜそんな必要があるのかについては、まあいいだろう。
いついかなるときも鍛錬をするには、いついかなるときも行っていることをターゲットとするのが順当だろう。
一瞬たりもとも止めることがない、いついかなるときも多なっていることとはなんだろうか。
それは呼吸だ。
呼吸を鍛錬し、上達し、無意識レベルで鍛錬できるほどになれば、いついかなるときも鍛錬し続けることができるようになったことになる。
So we beat on, boats against the current,borne back ceaselessly into the past.
いついかなるときも鍛錬をする必要がある。
なぜそんな必要があるのかについては、まあいいだろう。
いついかなるときも鍛錬をするには、いついかなるときも行っていることをターゲットとするのが順当だろう。
一瞬たりもとも止めることがない、いついかなるときも多なっていることとはなんだろうか。
それは呼吸だ。
呼吸を鍛錬し、上達し、無意識レベルで鍛錬できるほどになれば、いついかなるときも鍛錬し続けることができるようになったことになる。
いまのところ、このブログは自分だけの楽しみとしてひっそりと続けている。
世界の片隅で、情報空間にこっそりと、しかしながら着実に書き込みをしている感覚がある。
「50」くらいの記事がたまったら、それもまたこっそりとどこかにリンクを貼ろうと思っている。
村上春樹が「悪い批評とは馬糞がたっぷりと詰まった馬小屋のようなものである」と言っていた。
さっさとその場を立ち去るべきであり、なぜこんなに臭いのかなどとは考えてはいけないのだそうだ。
批評というか、人の意見をどういう風に受け止めるかは難しい問題だ。
意見と人格をしっかりと切り離しておかなければ悶着のもとだろう。
本来ならば「何が言われているか」でのみの判断が望ましいのだろうが、どうしても「誰が言ったのか」も重要になってくる。
単なる批評家が言ったのかと、小説家でもある人が批評をしたのかによって、受け取る方は違った印象を持つということだ。
ただ安全な守られた場所にいる人が訳知り顔の人が、言ったことなのか。
あるいは、自分自身も同じような批評にさらされるリスクを踏まえた上で言ったことなのか。
この違いはどうしても受け取り手の印象を大きく左右する。
自分はどうかといえば、批評家であるよりもまず先に、小説家でありたいと常に思っている。
そして批評家であっても、相手の可能性を最大限引き出すという結果を伴わないものを批評と正当化することだけはすまいと決めている。
そもそもがプラグマティストである私は、ルー・タイスの基本三原則である「be effective」の精神にとても深く共感しているのだ。
読書の際、気をつけていることは「最も抽象の高いメッセージを読み取る」ことだ。
このことを意識できると、読書の質がぐっと上がるだろう。
同時に可能であれば、「そのメッセージを元に、どのような構造がその本の世界に設計されているのか」を感じ取ることも行うとよい。
ただし、いずれも「小説」を読む際にはあまりおすすめできない。
「小説」は、一言一言が目の前で展開され、結果として全体像のようなものが立ち上がるという「プロセス」を楽しむ種類のテクストだからだ。
気やエネルギーが見えるのかと言われれば、見えるという答えになる。
私の場合は、視覚的にヴィジュアライズされて見えるというよりも、質感や抽象的な形として感じられるといったほうがいいかもしれない(視覚的に見えている感覚もあるにはある)。
また、内部表現の書き換えができるのかと聞かれると、職業なのでこれもできるという答えになる。
もっとも、多くの人がイメージしている「内部表現の書き換え」にはいささか解釈の偏りがあるようで、それは全体の一部に過ぎないと思っている。
いずれにせよ、そういった少しばかり超常めいた能力にを有しているのかという質問に対する答えはYESだが、あまり自分からそれをアピールすることはない。
理由はいろいろとあるのだが、ここでは書くまい。
また気が向いたら書くかもしれないが。
All meaningful, lasting growth and change starts first on the inside , and works its way out.
Lou Tice
タスクをのひとつひとつを、上の抽象度からまとめなおし、ひとつのゲシュタルトとしてかたまりを作る。
そして、それを実際に動かしながらアップデートし、問題がなければ無意識に入れてしまう。
あとは時々取り出して、よりよいゲシュタルトのあり方はないかチェックし、必要があればアップデートする。
こういうゲシュタルトを大小たくさん持っておくこと、あるいはこういう作業そのものに長けておくことで、仕事の能率を本質的に高めていくことができると考えられる。
『心の中にある種々のファンクションをエージェントと呼び、そのエージェントが多次元的に関わりあうコーポレート空間のパフォーマンスを、私たちコーチは見つめ、エンハンスメントさせ続ける』
コーチングは、人は本来無限の可能性を持っているという信念を前提にしている。
その可能性を阻む要因は四つあり、それぞれ
・ブリーフ(belief)
・ハビット(habit)
・アティチュード(attitude)
・エクスペクテーション(expectation)
となる。
だからコーチングでは、これら四つの指標を中心に分析を行い、改善を行う。
人から何かを学ぶ時に重要なことを書く。
知識内容を学ぶことが重要なのではなく、その人のブリーフ、ハビット、アティチュード、エクスペクテーションを学ぶことが重要だ。
尊敬すべき人のこれら四つの指標は、尊敬すべきあり方をしている。
私は常に、尊敬すべき人のこれら四つの指標を捉え、自分の中に取り入れる毎日を送っている、
なぜこのブログをはじめてみようと思ったのだろうか。
そのきっかけははっきりとしていて、ある尊敬する人のブログを読み込むという機会があったからだ。
そのブログには、気づいたこと、考えたこと、わからないこと、困難な出来事、どのように乗り越えたか、何を学んだかなどが、具体的に描かれていた。
私はすでにブログをひとつ運営しているが、こちらの記事は「コーチング理論を用いた問題解決」という基本方針がある。
だから、そこに個人的な内容はほとんど書かれていない。
上記の人のブログを読む中で、自分ももう少し日々格闘した痕跡のようなものを残したい、と感じた。
そこでこのブログをはじめることにした。
はじめてみて数日だが、なんだかよくわからない晴れやかな気分を抱いている。
この理由はまだよくわからない。