「批評家と小説家」

村上春樹が「悪い批評とは馬糞がたっぷりと詰まった馬小屋のようなものである」と言っていた。

さっさとその場を立ち去るべきであり、なぜこんなに臭いのかなどとは考えてはいけないのだそうだ。

 

批評というか、人の意見をどういう風に受け止めるかは難しい問題だ。

意見と人格をしっかりと切り離しておかなければ悶着のもとだろう。

本来ならば「何が言われているか」でのみの判断が望ましいのだろうが、どうしても「誰が言ったのか」も重要になってくる。

単なる批評家が言ったのかと、小説家でもある人が批評をしたのかによって、受け取る方は違った印象を持つということだ。

ただ安全な守られた場所にいる人が訳知り顔の人が、言ったことなのか。

あるいは、自分自身も同じような批評にさらされるリスクを踏まえた上で言ったことなのか。

この違いはどうしても受け取り手の印象を大きく左右する。

 

自分はどうかといえば、批評家であるよりもまず先に、小説家でありたいと常に思っている。

そして批評家であっても、相手の可能性を最大限引き出すという結果を伴わないものを批評と正当化することだけはすまいと決めている。

そもそもがプラグマティストである私は、ルー・タイスの基本三原則である「be effective」の精神にとても深く共感しているのだ。

 

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