「書くことが楽である」

このブログの文章を書くのは、すごく楽だ。

1日こればかりやっていれば、ものすごい量の記事が書けると思う。

なんでだろう、と考えてみた。

物事を考えるとき、何かの比較対象があるとよい。

その差異から、本質が見えてくるからだ。

私のブログに『REen』というものがある。

これは、コーチングの理論を用いて、世の中の問題に対する解を示すというはっきりとした目的がある。

また、読者に問題を解決するヒントとして活用してもらう以外にも、読者がコーチングを理解していくための読み物という機能も持たせている。

だから、コーチングをまったく知らない人が読んでも、ひっかかるところがないように書いている。

もちろん、読むのには論理的思考を要求するので、その点でついていけないという人はいるかもしれない。

しかし、用語がわからなくて理解不能であるという状態にはならないはずだ。

そのため、用語の定義や運用にはかなり気を配って書いている。

だから書くのに非常に時間がかかるのだ。

それに対して、このブログでは、いま言ったようなことをほとんど意識していない。

なぜなら、一つの記事で何かを伝える作業を完結するというパッケージではなく、ブログのたくさんの記事全体をなんとなく読むことで、大きなゲシュタルトが出来上がることを期待しているからだ。

だから、あまり厳密にひとつひとつの記事を書く必要がない。

いろんな記事を気の赴くままに読んでもらえると嬉しい。

「マーケティング」

いまでこそコーチとして全国に関わってくれる人がいるが、1年半前はまったく知名度ゼロのところからのスタートだった。

どうやって自分のことを知ってもらおうかなと考え、当時はやりはじめていたコンテンツマーケティングを学びにいった。

インターネット上で質の高いコンテンツを提供し、それをもとにラポールを形成し、自分の提供しているものに興味を持ってもらうという手法だ。

幸い文章を書くのは大好きだったので、ブログ記事というコンテンツを作ることは、問題なく始めることができた。

もちろんそれに伴い、ワードプレスの設定の仕方やSEO対策などたくさんのことを勉強した。

いまでこそワードプレスで情報発信するのは当たり前になっているが(コーチも含めて)、当時はそういう人は少なかったように記憶している。

ウェブ上でのマーケティングについて学んだものの、それは個人レベルに限った話だ。

もっと大きな規模、つまりマスマーケティングに関しては、わからないところも多い。

興味はあるので、マーケティングをもっと学びたいという気持ちもある。

「ない仕事の作り方」

みうらじゅん「ない仕事の作り方」を読んだ。

くだけた文体と、具体例としてあげられる対象や、手法のネーミングのユニークさが印象的だ。

しかし、実際には仕事に対する王道とも言える考え方が学べる本だった。

文字通り「ない仕事」をどのように作っていくかについて語られている。

そのために著者は、対象を徹底的に好きになる「自分洗脳」、世の中に目新しい対象を広げるための手段としての「一人電通方式」などの手法を生み出し実践してきた。

その過程で、ない仕事を作ることは「私」を消す作業であると気づく。

「私」ではなく、「対象」がどのように世の中に受け入れられ、楽しんでもらえるかを考え続けることだという。

これはまさに、仏教修行(特に大乗仏教)そのものだ。

ただ面白がって読むだけではもったいない本だと感じた。

「ゆる体操」

高岡英夫という人を知っているだろうか。

「ゆる体操」の創始者である。

私はコーチングの勉強を始めるとともに、ゆる体操を本格的に始め、さらにその奥にある身体の世界についても深く学び続けている。

素晴らしい出会いに恵まれ、とてもスムーズに、安全に、楽しく学び続けることができている。

「ゆる体操」どんな人にもおすすめですよ。

「理由2」

なぜこのブログをはじめたのだろうか。

別の理由がまた見えてきた。

 

私が発信している情報は、メインブログ、フェイスブック、メルマガ、ツイッターがある。

それぞれ役割が違うが、共通しているのはコーチングの話題であるということだ。

 

まず最初に、「書きたい、表現したい」という欲求がある。

そもそものその対象は渾然としたものとして現れる。

その中から、コーチングの話題にうまく接続出来そうな対象を選びだし、コーチングの理論で切り出すことで、言語化をしていく。

必然的に、その条件に合わない対象は切り捨てられていくことになる。

しかし、これらは、依然として私の中に行き場を失った形で留まり続ける。

この状態が苦しいのだ。

どうしても言語にしていかなければ、頭がパンクしそうになる、そのことに気づいたのは最近だ。

 

コーチングの理論は非常に多くの現象を分析することができるし、多くの問題を解決するための指針を打ち出すことができる。

それゆえ、書く話題には事欠かないため、いつのまにかコーチングとは「関係させる必要のないと思える」対象が、私の中で積もり積もることとなった。

でも、そういった対象であっても私の中から出てきた、私の一部なのだ。

無視し続けることは困難なことだ。

 

そういったコーチングとは関係のない対象をどう切り出すかを経由することで、かえってコーチとしての私の姿を伝えることができるかもしれない、そうも思う。

「プログラミング」

少し前に、プログラミングについて学んでいた時期がある。

といっても、本格的なものではない。

プログラミングとは何かといった概論と、HTML や CSS といった基本的な言語を用いて、プログラミングがどのように書かれていくのかを理解するといった程度だ。

わけあって(このブログもそのひとつだが)、最近はワードプレスを用いてウェブサイトを構築する作業に取り組む時間が長い。

その際、プログラミングの入り口の入り口だけでも勉強したことが役に立っていることを実感している。

一番初めにワードプレスでウェブサイトを作った時とは大違いだ。

どのようにウェブサイトが成り立っているかを、深層のところからイメージできるので、何をどうすればいいのかの判断が以前よりも楽になっている。

 

ここから得られる教訓は二つある。

ひとつ目、どんな勉強も、こなせばそれなりに向上する。

ふたつ目、どんな勉強も、使うことでその意義をより実感できる。

「魔法少女」

「魔法少女」は、日本のアニメーションの重要なモチーフのひとつのようだ。

少女性、自我の確立、共闘、善悪の彼岸など共通するテーマが、時代に即したそれぞれの作品の形で、繰り返し執拗なまでに描かれ続けている。

そして傍には、『神曲』のウェルギリウスのごとく、異界からやってきた小さな生命体が物語の導き手としてかならず侍る。

私のベストワン魔法少女作品は『魔法少女まどか☆マギカ』で、この先もう揺らぐことがないのではないかと思うくらいだ。

虚淵玄の脚本、蒼樹うめのキャラクターデザイン、シャフトの製作、劇団イヌカレーのデザイン・美術と奇跡のような組み合わせで成り立っている。

もちろん音楽も素晴らしい。

久々に見返そうかと思っている。

「コーポレートコーチング(上)」

苫米地英人『コーポレートコーチング(上)』を読み返してみた。

先日、Cognitive Corporate Coaching Program(CCCP)を受講した上で、読み返してみると、実にいろいろな発見があった。

まず当然のこととして、以前よりも内容が頭に入ってくる感覚がある。

これは、練り上げられたプログラムを受講したことで、コーポレートコーチングの大きなゲシュタルトが体感できたからだろう。

また、最近は組織単位で動くことも多くなってきているので、実感できる実例を自分の中にたくさん積み上げていっているのもあるだろう。

いずれにせよ、自分が成長を遂げているということなので、嬉しいものだ。

続けて『コーポレートコーチング(下)』も読み返したい。

「だから言ったじゃん」

私が最も嫌いな発言のひとつに「だから言ったじゃん」というものがある。

他人から言われるのも好きではないし、自分は絶対に言わないように気をつけている。

 

Aに対して「こうするべきだ」とBが言った。

そのときAは、うまくそれを受け入れることができなかった。

時間が経ち、Aはそのことが腑に落ち、受け入れたとする(あるいは、相変わらず受け入れられないままで、それが何かの失敗につながってしまうようなこともある)。

その場合には、かつてBに言われたことすら忘れているかもしれない。

そんなAを見て、Bは「だから言ったじゃん」「前から私はそう主張している」「ほら言った通りになったじゃないか」と言う。

こういうケースだ。

 

なぜ嫌いなのかを分析してみると、生産性がないからだ。

唯一あるとしたら、発言者の我が満たされるということだけだろう。

本来、言った通りのことを受け入れたとしたら、Aの成長でありそれは喜ぶべきことだ。

また、言った通りのことが受け入れられなくて失敗につながったとしても、それをきっかけによりよいAになるチャンスと捉えることもできる。

そのいずれの方向へも行かないのが、Bの「ほら言ったじゃん」なのだ。

示されるのは、Aに対するBの正当性、優位性のみであり、Aは洞察の鈍い自らを恥じ、自己評価を下げる方向へと進むしかない。

 

書いていて、この発言の気に入らなさは、本音と建前の乖離にあるのかもしれないと気が付いた。

Bが「こうすればいい」と言うのは、通常「相手のために」というスタンスを取る。

この時点では、「こんなことを理解している自分はすごいのだと示したいから言う」というスタンスはとらないだろう。

もし「相手のために」というスタンスが真ならば、時間がかかってもAが築いてくれれば喜ぶべきことだ。

しかし、実際には「ほら言ったじゃん」と言う。

これは「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだろう。

また、「相手のために」というスタンスが真ならば、Aがなかなか受け入れられず失敗をしたときこそ、上手に「こうすればいい」を伝えるチャンスなはずだ。

にもかかわらず、「ほらいう通りにしないからだ」と言う。

ということは、やはり「相手のために」というスタンスが偽のものだったということだ。

このように、建前としては「相手のために」を取りながらも、局面が変化すれば「自分の正当性、優位性を主張する」本音が出るという構造がある。

このことに対して憤りを感じるのかもしれない。

 

自分がそのようにならないよう気をつけている。

そのためには、わざわざ人に自分の正当性、優位性を主張する必要がない状態になっていればよい。

すなわち、自分で自分の圧倒的価値を認められるようになっておけばよいということだ。

「概念 / concept」

概念の定義を理解すること自体は、さほど難しいことではない。

ところが、概念を自在に使いこなそうと思うと、これがなかなか難しく、時間がかかるものだ。

 

包丁があるとする。

包丁が何であるかを理解することは簡単だろう。

食材を切るためのものだ。

しかし、包丁を自由自在に使いこなせるようになるには、それなりの時間を要する。

数ある食材に対し、それぞれベストの力加減、角度、スピードなどを同時並列的に処理できるように長けていく必要がある。

それなりに時間がかかるだろう。

概念を自在に使いこなせるようになることは、このことに似ている。

 

先日、Cognitive Corporate Coaching Program(CCCP)を受講した。

私が主戦場としてきたパーソナル・コーチングは、一人に対して施すものだが、このプログラムでは人が集まった組織そのものにコーチングを施すものだ。

必然的に、新しい概念が登場する。

それらの定義を理解することは問題ないのだが、やはりその運用にぎこちなさを感じる。

慣れるための方法は単純で、失敗を恐れず積極的に使ってみることだ。

 

指を切ることを恐れて包丁を握らないようでは、いつまで経っても上達しない。